歴史は繰り返す(本気で)
今日僕は何故以下のような書き出しで始めようと思ったのかと言うと………
他の人のnoteや自分の記事を読んでいて感じる事、それは
「何故、今日、しかもこの場でわざわざ文章にして表現しようと思ったのか?」
という疑問である。一言で言えば動機に当たるのだが、不思議なほどにそれは語られる事がない。動機という言葉がいかめしいのであれば、少なくとも「これは面白い」と思った瞬間があった筈である。内容ではない。面白いと思った瞬間を取り巻く状況から書き始めるのだ。全てを始めから正直に漏らさず書き残す事によって、何か人間の普遍的なものが見えてくるのではないか。それは、エッセイが小説に対して持っているストロングポイントなのではないか。小説家がどのような物語の作り方をしているか僕には分からないが、恐らく、自分の人生経験をベースに色々想像して、「自分がこう動いたら相手はこう動く筈だ」みたいな自然主義や「こうあって欲しい」みたいな理想主義を書いているのである。自然主義はありふれているのでわざわざ例を挙げるまでもないだろう。理想主義という言葉は正確には正しくないと思うが、SFやホラー、感動的な恋愛もの、テレビドラマにおける様々な突飛なシュチュエーションもの等も、広い意味で言えば「こうあって欲しい、こうあってくれたら面白い」から生まれた発想なので理想主義と呼んで良いのかなと。
どちらもありのままを書いているのではなく、個人の思想を作品に反映させてしまっているので、それがどんなに優れた思想であっても歴史の再現性という観点で申せばそれは乏しくなってしまう。
仮に一回きり、自分だけの想像力を駆使してオンリーワンを作り上げたとしても、「人間世界は普遍的だ」の考えを欠いたものにはどこか空虚な印象を抱いてしまう。昨今の日本ドラマがもたらすつまらなさの原因は、ざっくり、思想の停滞にあるのだろうと思っていたが、普遍性・日常の欠如にあったのかもしれない。空虚な印象というのは要は、「そんなありもしない話をしやがって」という感を指している。飛び抜けた想像力を売りにするのであればそれを糧に相応の教訓を結果として示せなければ、不本意だとは思うが「そんなありもしない話をしやがって」といった冷たい爪弾きにあってしまうだろう。しかも、人間の想像力によって意図的に計算して示唆出来る内容は限られる。ありのままの引用といったエッセイ的手法は一見ただの馬鹿な行いに思えるが、己の感性や選球眼に自信があって、受け取る側にもそれなりの力があるならもたらされる教訓は輻輳的。寧ろそれ自体が教訓なので得られるものは余程大であろう。ちょっと抽象的にしか説明出来ない点が少々残念だ。例えば、自分というタイプの人間は仮に現在には居ないとしても、遠い過去や未来を見渡せば、血は繋がっていなくとも存在した若しくは存在するであろうと言いたいのだ。
以上は最近抱いた思い付きなので根拠もなければ自信もない。ただ、考慮に値する面白い視点だろうとは思ったので書き記すのである。まあ随分前から思い付いてはいたのだが、最近、学者で評論家の西尾幹二氏が亡くなった為、久しぶりにご顕在の頃を振り返りたくなって見返した動画で同じような事を話していたのだ。西尾先生は、僕なんかよりももっと学術的に、西洋文化と比較しながら普遍性を訴えておられた。ただし、それは話の一部に過ぎない。興味のある方は以下のリンクから拝見されたし。
物事には原因があって結果がある。そして時にはというか殆ど、分かりやすい一対一の構造にはなっていないかもしれない。だったら尚更、結果だけ示されてもそれは完全な片手落ちではないか。「結果良ければ全て良し」と流してしまう事もあるが、カチッとしたものを仕上げようと思ったら案外前置きが重要だったのかもしれないって話である。
話は変わるが、西尾先生みたいな良い意味での頑固親父は本当に文字通り化石と化してしまったと思う。先生の深遠な話に対して、もん切り型の返しと評しで申し訳ないが、それが率直な意見なのだ。現在、専門家はいても西尾先生みたいな「評論家」という肩書きをぶら下げている人は居なくなってしまった。政治評論家や経済評論家とは全然違うのだ。何についても語ってやるぞといった良い意味での図々しさ。最近の親父は纏まりが良過ぎるのだ。臆病なのである。頑固であるかはともかく親父は現在も沢山いることにはいて、表面上なんだかんだ偉そうにはしていても皆んな何かしらに屈伏しているのだから詰まらない。西尾さんも勿論配慮して発言はしているのだが、言葉の節々から譲れない矜持があるんだろうなと感じる。よって見識を深める事が出来たのだろう。ドイツやニーチェに関する学識をもとに時代や日本を論ずるみたいな、スケールの大きな人物がまた一人居なくなってしまった。マーケティング戦略系で「こうすれば儲かりまっせ」系が今後も幅を効かせるのだろう。最近こういう人達が、俄仕込みの見様見真似で世界を語ろうとする為僕はウンザリしているのだ。
ニーチェに限らず、こういう偉人が書いた本は大小問わず難しいものだらけである。近頃、永田町政局ドタバタ話にも飽きて、Xの馬鹿話にも飽きてきた為に、また読書へシフトしている最中であって改めてそう思う。本来なら趣味としてではなく本気で解読しようとする人が必要なのだ。一人亡くなったら一人生まれる。そうでなければこの世のバランスが崩れてしまうだろう。