ようやく宮沢賢治記念館へ
お気に入りの麦わら帽子と、ベージュのジャンパースカート。そこにフラットのパンプスを合わせたら、なんとまぁ、一気におばさんぽくなってしまった。ワンマイル・ファッションどころか、「回覧板を届けにお隣さんまで行ってきますファッション」だ。ジャンパースカートがエプロンに見えなくもない。
「やっぱりヒールを履こうかしら?」
そういえば前回もこんなだったなと思い返す。おしゃれして出掛けようとすると、鏡に映る自分の姿が、思っていたよりももっとずっと老けて見えるのだーー。
人は、自分のことを何割増しにも都合よく見ている。「大丈夫、そこまで太ってない」とか「まだまだイケてる」とか。他人のみっともなさには目を向けるのに、自分のみっともなさにはなかなか気付けなかったりする。時々、思い知らされる。白髪を染めない女というのは、他人には「このように」見えているのだな、と。見た目のせいで私の内面まで判断する人もたくさんいるのだろうね。
そしてこれは、ごまかしようのない事実なのだ。老化が自然現象である限りしかたがない。私に出来ることは何もない。
「もとよりおばちゃんなんだもの」
居心地よく、フラットシューズで行くことに決めた。思い立ったが吉日。ようやく、数年ぶりの宮沢賢治記念館へ。やっほーぃ。
道中には栗のイガがたくさん落ちていた。まだまだ残暑は厳しいけれど、山にはちゃんと秋が来ているのだなぁと感心する。平日の観光地って静かでいいよね。周囲に人間がいないというだけで、異世界感が満載だ。イーハトーブ館から記念館までの散策路をひとりきりで歩く。木々からどんぐりが落下する音だけが響く。
特別展は賢治生前の『二冊の初版本刊行100周年』ということであった。正直、真新しいものは何もないよね。今の時代、情報が得たいならスマホで検索をするのがいちばん手っ取り早いし。現地までわざわざ訪ねて行く理由があるとしたら、現物を見たいということである。が、特別展で展示してあったのは私の間違いでなければ「複製本」であった。もちろん複製本もかなり古く貴重なものであるが、それならば私の書斎にも並んでいる。そもそも現物は (これまた私の間違いでなければ) 常設展示でいつでも見られる。(ーーそれはそれでありがたいのだが)特別展があるたびに出掛けてゆくけれど、毎回なんとなく肩透かしをくらってる感があるのは私だけか・・・?
すべての情報がインターネットを通して自宅で得られる時代に、わざわざ現地へ足を運ばせるのは大変なことよね。将来的にこういったハコモノは維持不可能になるのだろうな。広いカフェスペースを有効活用できていない辺りが非常に残念だ。
さて、お気に入りの賢治作品は多数あれど、子供の頃に心臓をズドンと打ち抜かれて以来、私の心を離れないのが『虔十公園林』である。
昔は男の子の名前に「しゅ」を付けて呼ぶ風習があったとかなかったとかで、実際、賢治の父親は親しみを込めて賢治を「けんしゅ」と呼ぶことがあったようだ。虔十(けんじゅう)という主人公の名前がそこから来ているのは明らかで、賢治にとってこの作品は、自分の理想の生き様を描いた重要なものであることが想像できる。
「虔十のように生きるのが私の子供の頃からの願いである」と言えば、私がこんな燻った人間であることに「なるほどねぇ」と思うのではないだろうか。間違った社会で得をしようなどとは思わない。本当に世の役に立つことはなんなのか。それを示してくれる大人が、残念ながら私のまわりにはいなかった。辛うじて、賢治の言葉の端っこを握りしめて生きてきたけれど、いまだ自分には不甲斐なさを感じるばかりであるーー。
帰り際、観光客がちらほらと増えてきた。大概が私と同じ一人旅のようであるが、女子旅らしいグループとか、とっても楽しそうでうらやましくなった。子供の頃から友達がいない私にとって賢治だけが心の友であった。もしも今、自分の不甲斐なさや、銀河や林や、本当の幸いについて語り合えるような友人と出会えたら、私は飛びあがって喜ぶだろうね。ーーまぁ、ひとりでも楽しくやっているんだけど。
最後にひとつ、ショックだったことがある。これまた老化現象であるが。どの展示物の説明書きの文字も、細かくて暗くて、てんで読めなくなっているということに気付いたのだ。これは私が老眼鏡を掛ければ済む、という問題だろうか。
これから先、ますます不便は出てくるのだろうね。高齢者が外に出るのを怖がって、寝たきりになってしまうのも分かるような気がした。この世は、能力のある者が楽を出来るように作られている。賢治思想とは真逆である。