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マニキュアが乾くまで
すっかり低迷期だね。(更年期とも言う)
なんとなく元気のない日々が続いているけれど、今朝は完全に食欲がない。朝食をスキップして、代わりにマニキュアを塗りなおして過ごす。梅雨時は湿気のせいか、ポリッシュの乾きが絶望的に遅い。恨めしくなる。こっちは一秒一秒、歳をとるのだぞ。
完全に乾くまで何も出来ないので、両手を熊のような「ガオー」のポーズで持ち上げたまま窓辺の書斎に腰掛けて、ぼけっと空を眺める。今日は食料の買い出しに行くつもりでいたけれど、食欲がないのに食材を買ってもちゃんと食べきれるだろうかーー、独居生活ではいちいちそんなことを心配しなくてはいけない。
突然、窓ガラスの外側に私の小指ほどもある大きな虫が飛んできて張り付いた。
カミキリ虫、かな? 黒光りしてプラモデルのようだ。片っぽの触覚が途中でちぎれている。よく見ると、6本あるはずの脚も5本しかない。カラスにでも襲われたのだろうか。大変なピンチを切り抜けてここまで来たのだな。
「触覚の先っちょくらい、手足の1本くらい失ったって、そんなことで生きるのをあきらめるわけにはいかないからね」
そう言って、残った5本のうちの1本を私に向かって大きく振っているーー、ように見える。虫なんて案外、自信過剰な生き物なのかも知れない。
「もしも君が、僕に砂糖水を一杯ごちそうしてくれたらなぁ。そしたら君に歌を歌ってあげるんだけど」
「歌?」
「マニキュアが乾くまで」
ーー人生にはいつも、叶わなかった夢がある。ふと思い出してしまって、悲しくなる。
宇宙飛行士になるとか、年収1000万だとか、女性初の大統領だとか、ノーベル賞を受賞したり、生命の謎を解き明かしたり、世の中にはとんでもない夢を叶える人々がいるけれど。それに比べたら私の夢なんて、笑っちゃうほど小さい。
「ギターを弾くような彼氏がほしかったなぁ。ちくしょう」
こんなシンプルな願いさえ叶わないなんて、宇宙の法則はどうなっとんじゃ。「ギター弾きのイケメン連れてこい」それだけでしょうが!
ーーまぁ、ギターだけでなく詩も書けた方がいいけどね。井上陽水みたいにさ。ちぇ。
私のマニキュアが乾くまでの間、ギターをボロン、ボロンと鳴らして、自作のヘンテコな歌を歌ってくれる彼氏。私のことをラブソングにしてくれる彼氏。新曲『オレの彼女は丸顔だ』を熱唱してくれる彼氏。間奏のたびに「もう乾いた?」って聞く。「まだまだ。ぜんぜん乾かない。もう一曲」ギターが、ボロン、ボロン。
ーーそんな恋がしたかった。お金がなくても、なんのあてもなくても、世間がどんなに冷たくても、君となら幸せになれた気がするんだよ。あーあぁー。
タイミングがまずかったんだね。私はいつもそうだった。音楽学校を出たくせに楽器なんてひとつも出来ないし、歌も下っ手くそ。音楽にリズムがあるように、人生にも適切なタイミングというものがある。勉強する時期、恋をする時期、旅に出る時期、子育てをする時期、金を稼ぐ時期、それらをひとつずつ手離してゆく時期ーー。私はぜ~んぶ乗り遅れ。いつだって一拍遅れで、あたふたと歌い始めるのだ。それが私だ。
「近々、いいことがあるかもよ」
「なぁに、それ? 虫の知らせ? なんか不吉じゃないの」
「違う、違う」
虫が、手だか脚だかをふりまわす。5本のうち、3本も。
「不吉じゃないさ。いいことだよ。きっと、いいこと」
「あたり前でしょ。私まだほんの45歳だもの」
いいことなんてこれからいくらでもあるに決まってる。虫なんかになぐさめてもらわなくたってさ。なんなら、今からギターを練習して自分で歌ったっていいんだ。ヘンテコな歌を量産してやろうか。
「それ、いいね」
今度はお尻をふったように見えた。
ーーマニキュアが乾くまで、もう少し。