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野良猫がいてもいなくても
「がんばれよ。負けるなよ」
近所をうろつく猫に勝手にエサを与える女性が、今朝はそう言っているのが聞こえた。猫はもらったものをがつがつと食べている。うまそうだ。
若い頃の母を思い出す。
私にとって母は、一緒に過ごす人ではなく「見掛ける人」だった。毎朝、あわただしく朝食を作り、洗濯をして、化粧をして、華やかなスーツを着てばたばたと出勤してゆく。
私も兄も学校でいじめられているのを知っていて母は、ただ、ひとことふたこと言うのだった。
「はりきって行ってらっしゃい」とか「がんばれ! 元気だせ!」とか「ファイト一発!」とか「負けるなよ」とかーー。
見捨てられた気分だった。野良猫にエサを与えるような接し方だった。
「どうして僕らちゃんと飼ってもらえないんだろうね。明日はエサをもらえるだろうか、もらえないだろうか」
私も兄も困惑しきって、すっかり疲れ果ててしまった。
もしかしたら母は、本当はものすごく善良な人間なのかも知れないと考えた。マザー・テレサのようなとんでもない慈愛に満ちた人で、孤児だった私と兄を拾って育ててくれているのではないか。血がつながっていないのではないか。父がよその女に産ませた子供ではないのか。だからあんなに冷たくよそよそしいのではないか。母はきっと、根っからの善人に違いないーー。
鏡に映る自分の顔が、45歳を過ぎていよいよ母によく似てきたのが、悲しいーー。
血のつながった実の母と、私はこんなにも理解し合えないのだ。愛情がないのは今となってはお互い様。恨みっこなし。どうせ野良猫だったのだから、もっと早く、遠くへ逃げてしまえばよかった。母の負担になる前に、別の生き方を見つけるべきだった。
すべてをなかったことに出来るくらい、別人になってしまいたい。死にたい。いや、違う。眠い。今日は「死にたい」より「寝たい」だ。生理が来たせいだ。気絶しそうなほど眠い。
もういいな? 世の中ちゃんとまわってるな? 順調だな? 問題ないな? 野良猫がいてもいなくても。