セレブのお買い物
最近の私はいろんな感覚を「淋しい」と混同しがちだ。でも違う。今朝は「涼しい」のだ。すっかり秋の風が吹いている。心地好いに決まってる。「怖がらなくてもいいんだよ」と自分に言ってやる。何度も何度も覚悟しなおさなくてはいけない。覚悟というより、こうも頻繁になるともはや確認作業か。ひとりで生きるということは、ひとりで死ぬということだ。「本当に大丈夫? 本当にそれでいい?」ーーことあるごとに私のちっぽけな心は揺らぐ。
楽がしたい。
そう考えている自分がいる。
嫌な思いをせず、すずめのように軽々と生きて、苦しまずに死にたい。
ぼんやりとまとまらない思考はやがて安楽死まで行き着く。私は健康体だから基準を満たさないのは分かっているけれど。でも健康体ってなんだろうね。「回復の見込みがない耐え難い苦痛」なら、肉体でも精神でも同じじゃないのか。私にも適用してはくれまいか、なんて。
安楽死を希望するのは白人の富裕層がほとんどだそうだ。お高い代金を支払えるから、というのは大した問題ではない。安楽死はセレブのお買い物ではないのだ。あくまでも「なぜ死にたくなるのか」だ。
例えば、末期ガンなどが肉体に及ぼす苦痛は金持ちでも貧乏人でも同じである。違うのは個人の感じ方、捉え方、認識だ。つまり、首吊りでも飛び降りでも安楽死でも、自ら死を希望するのは「100%精神的な理由」ということになる。
実際、私は30歳の時に「精神」が崩壊して死にかけた。自殺未遂などしていない。何もしていない。耐えがたい精神的な苦痛から、生命維持活動がうまくできなくなったのである。生きることを拒否した私の体は一切の栄養を吸収しなくなり、寝たきりになり、ほんの1ヶ月で昏睡状態に陥った。・・・でもまぁ言われてみればそこから、一応はここまで「回復した」ということになろうか。
だとすればやはり安楽死の基準には疑問がある。死を選択する理由が、建前上は外的な苦境だとしても、その中身が100%精神的なものである限り、回復の見込み(つまり考えが変わる可能性)は、ゼロではない。
しかしまぁ、やりたいときにやりたいことをやる誘惑から逃れられる人は少ない。食べたい時に食べ、泣きたい時に泣き、寝たい時に寝るのが一番だし、死にたい時に死ねたら本望だろう。結局、安楽死はセレブのお買い物になってゆくのかも知れない。購買意欲を煽るためにおしゃれにパッケージされて。王様の安楽死なんて盛大に執り行われるんだろうな。とんでもないギャラでテイラースイフトなんかが歌いに来てくれたりしてさ。
私は今日も辛うじて生きている。ギリギリ。生と死の淵で、どっちに足を踏み出したら良いものやら分からずに、おろおろとやっている。完全に迷子だ。
潔く生きていけないのはなぜなのか。生まれてきたことにこんなにも罪悪感があるのはなぜなのか。なぜこんなに「淋しい」のか。
違う。今日は「涼しい」のだ。心地好いに決まってる。