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土居豊の文芸批評・ドストエフスキー最大の問題作『悪霊』〜なぜ村上春樹は「悪霊」を「神の子どもたちはみな踊る」のエピグラフに選んだか?

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土居豊の文芸批評・ドストエフスキー最大の問題作『悪霊』〜なぜ村上春樹は「悪霊」を「神の子どもたちはみな踊る」のエピグラフに選んだか?




(1)村上春樹も愛読したドストエフスキー

 今の世間で身近なところに、『悪霊』を語り合える知人が一人もいないのが、つくづく残念だ。
 村上春樹の熱心な読者同士なら、ドストエフスキーについて少しは話せる。だがそれも、『罪と罰』や『カラマーゾフ』までが限度なのだ。
 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」が、『カラマーゾフ』の4兄弟の名前を言える人は何人いるだろう?と嘆いたが、それよりもっと希少なのが『悪霊』の話ができる人である。
 その点では、村上春樹がドストエフスキーを十代から繰り返し読み、自作の中に引用してきたことに対して、筆者は共感を覚えたものだ。
 ついでながら、同作の中で春樹は「私」がビアホールで流れるブルックナーの交響曲を聴いて、「ブルックナーの交響曲の区別がつく人はいない」などと言わせたが、筆者には区別がつくぞ、と大きな声で言いたい。どうでもいいことだが。

 さて、筆者自身のことをいえば、最初にドストエフスキーを読んだのは大学生の頃で、やや遅いと言えるだろう。特にハマったのは御多分に洩れず『罪と罰』で、それから次々、主に新潮文庫でドストエフスキーを読み漁った。『白痴』が一番好きだった時期もあったが、やはりダントツにのめり込んだのは『悪霊』だった。その辺りのことは、筆者の連載エッセイ「平成文学私史」に書いた。

※拙稿へのリンク
『平成文学・私史』(浦澄彬 著)第1章「平成時代直前の文学部系大学生」
その1「小松左京とニアミスだった大学入学・有名人の多い大学」
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/10/30/143121

その2「芸大生の文学活動」1
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/01/230454

その3「芸大生の文学活動」2
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/03/110844

その4「芸大生の文学活動」3
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/07/181615

その5「芸大生の文学活動」4
https://doiyutaka.hatenadiary.org/entry/2024/11/17/141258

 通っていた大学の先生にロシア文学の専門の人がいて、ドストエフスキーが好きだというと大喜びでいろいろ語ってくれた。筆者はふと思いついて、その先生に『罪と罰』のラスコーリニコフと、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの類似点を話してみたが、大いに感心してくれて、その線をぜひ進めてみるといい、と言ってくれた。残念ながらそのアイディアはいまだ、形になっていないので先生もがっかりされていることだろう。
 ともあれ、筆者はロシア文学専攻ではなかったが、ドストエフスキーにハマって『悪霊』を繰り返し読んだ。どこがどう気に入ったのかその当時は自分でもはっきりしなかったのだが、珍妙なキャラクターたちが織りなすコミカルでエキセントリックな会話を読み進めるのが無性に面白かった。
 この本の新潮文庫版の背表紙に、作品紹介として「世界文学が生んだ最も深刻な人間像」と書かれていたのだが、読めば読むほど、「最も深刻」どころか、こんなに笑える人物たちはいないと思えるほど読んでいて面白かったのだ。
 先にわけもわからず小説を読破してしまってから、予備知識としての時代背景やモデルとされたネチャーエフ事件のことなどを知った。

※参考
ネチャーエフ(Sergey Gennadievich Nechaev)
[1847~1882]ロシアの革命家。学生運動を指導して亡命し、亡命中にバクーニンとともに檄文「革命家の教理問答」を発表した。帰国後、批判的なメンバーをリンチ殺人し亡命。1872年逮捕・送還され、獄死した。ドストエフスキーの小説「悪霊」の登場人物のモデルで、陰謀家の典型とされる。
出典 小学館デジタル大辞泉

 だが、当時のロシア帝国の社会の暗部を象徴するようなモチーフの持つ陰鬱さ、暗澹たる絶望感とは裏腹に、小説『悪霊』の人物たちの言動は、本当に間が抜けていて、コメディのように読めてしまうのだった。
 その辺りの原因は、のちになってドストエフスキーの研究で名高いバフチンの『ドストエフスキーの詩学』を読むと、ようやく理解できてきた。

※参考
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480081902/

 特にバフチンの唱えたポリフォニー説は、十代の頃から愛聴してきたグスタフ・マーラーの交響曲のポリフォニックな構造を思い合わせると、たちどころに納得がいくのだった。
 それはともかく、十代から二十代にかけて、筆者は『悪霊』のキャラクターたちが繰り広げる喜劇的なドタバタと、感情的ですっとぼけた会話の数々を折に触れては読み返し、ドストエフスキーの作品世界に浸ってしばし俗世を忘れることができた。
 『悪霊』を読むたび、あまりに世界が卑小で残酷無情であり、人々が無能で馬鹿げていることになんとなく安心することができて、自分の悩みごとなどどうでもいいような気になれたのだ。そういった感じで、言うなればセラピー的な読書の道具として『悪霊』を読んできたのだ。しかし最近、改めて本作を読み返して、おそるべきことに気づいてしまった。
 『悪霊』に描かれたあのどうしようもない愚かな人物たちは、現在の日本や世界にはびこっている愚かしい人々の姿を予告していたといえるのではあるまいか。はるか100年以上前に、ドストエフスキーは予言していたのではないか?


(2)悪霊のキャラたちはまるで現代人の典型

 具体的に書いてみよう。
 まず、『悪霊』の主なキャラクターのそれぞれは、まるで今の世の中の群像をそのまま書いたかのように読めてくるのだ。
 キリーロフは、引きこもり学生。
 シャートフは、マッチョで純情素朴な理想主義者の学生。
 もちろん、この二人は意図的に対照的なキャラとしてセットで描かれているのだが、現代の十代〜二十代の典型例を活写しているように思えてくる。
 また、リプーチンは、空気を読んで出世しようとするタイプ。シガリョフは頭でっかちの秀才タイプ。この両者も対照的だが、まさに現代の青年〜中年の典型例に思えてしまう。
 そのほか、リャムシンはなんでもこなすエンタメ職人で、エルケリ少年は受験秀才で将来の小役人。レビャートキンは下っ端の使い捨て労働者。これらも現代の非正規労働者、フリーランス、正規労働のブラック社員(役人)や、果ては「闇バイト」の群像まで示唆しているように見えてくるところがすごい。
 何より、ピョートルがスタヴローギンに語った「アメリカなしのコロンブス」と「イワン」の話には、今の兵庫県知事選挙事案での、立花&斉藤現象がそのまま活写されているように思える。また、東京都知事選挙の石丸現象も似ている。ピョートルが「政治的野心」をペテン師と言い換えるところも、まさに立花や斉藤、石丸の姿そのままではあるまいか。
 本作の語り手であるG氏からしてが、そもそも常に局外に立って興味本位でことの次第を語っている。Gのスタンスはまるで今の無責任なネット民、Xの匿名ポスト主のように思えてくるのだ。
 ちなみに、『悪霊』のこれら群像の原型は、前作『白痴』で病気の少年イッポリートの仲間たちとして、すでに描かれている。無軌道な青少年たちを見て驚いたエリザヴェータ夫人は、次回作『悪霊』の行く末を予告して叫んでいるのだ。

※引用
「神を信じていない、キリストを信じていないんだよ! そうさ、あんたたちは虚栄と慢心にとことん蝕まれているから、しまいにはお互い共食いするしかない、そう私から予言しておくわ。」
(ドストエフスキー『白痴』2 望月哲男 訳 河出文庫P.227)

 『悪霊』を読む時、当時のロシアでモデルとなったあれこれの事件を想定して読むのが本来正しい読書なのだろう。しかし、そういう背景を考慮せずに、今の小説と同じだと思って読むと、まるで現在の日本や世界でのSNS絡みの醜悪なあれこれと、イメージが重なってくるだろう。陰謀説、虚像の英雄、宣伝、広告、権威の失墜、そういったあれこれが見事に活写されているのは、驚くばかりだ。闇バイトの群像までが予告されているように思えてしまうのだ。この闇バイト案件に、いち早く迫った日本の小説に高村薫『冷血』があるが、小説の語り口とキャラの魅力という点でドストエフスキーには全く届かない。

 ところで、最初に述べたように、村上春樹もまたドストエフスキーを偏愛してきた作家だ。それも、『カラマーゾフ』だけではなく『悪霊』にもちゃんと触れている。

※引用
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』
エピグラフ

《「リーザ、きのうはいったい何があったんだろう?」
「あったことがあったのよ」
「それはひどい。それは残酷だ」
『悪霊』江川卓 訳》

(新潮文庫『悪霊』下巻 p.282)

※参考
https://www.shinchosha.co.jp/book/100150/

 本作のエピグラフに『悪霊』のこの箇所が選ばれている意味は、その前後を補わなければわからないだろう。その前後は、このようなくだりだ。

※引用

《よくって。わたしはまだスイスにいたころから、自分がどういう人間か、あなたにかくしたりしなかったわ。だのにモスクワへ行くことも、お客に行くこともできないんだから、だってあなたは結婚しているのですものね。だったら、そんなことは話すだけむだよ」
「リーザ! きのうは
(中略)
それは残酷だ!」
「残酷だからってどうなの、残酷だったら、お耐えなさいな」
「罪はぼくに復讐しているんだ、きのうの幻想のことで…」毒々しい笑いを浮かべながら、彼(注、ニコライ・スタヴローギンのこと)はつぶやいた。リーザはかっと赤くなった。
「なんて下劣な考え!」
「じゃ、どうしてぼくに贈ってくれたのさ…【あれほどの幸福】を?」》

 この場面では、主人公(というべき)ニコライ・スタヴローギンと、その恋人・妻になるべきはずだったリーザが、一時の交情について後から悔やんであれこれと語りあっている。二人はどうあっても結ばれないことをお互いに完全に理解していながら、空疎な対話を続けている。この部分の中から、あえて上記の箇所を抜き出して、短編集のエピグラフに載せた意味とはなんだろう? まさしく運命的に起きてしまった事実を、真正面から見つめて、残酷な現実を直視し立ち向かわなければならない、というようなニュアンスを伝えようとしているのではなかろうか。
 それというのも、この短編集は村上春樹が故郷の阪神間を壊滅させた阪神淡路大震災をテーマとして、雑誌掲載時には連作「地震のあとで」と題して書いた小説集なのだ。それぞれの短編の中で、阪神淡路大震災のあと、被災地から遠く離れた場所で登場人物たちは各々、地震・震災という巨大な運命、厳然たる事実を多かれ少なかれ感じ取り、そこから深いところに伝わってきたなんらかの宿命のようなものに向き合おうとする。
 中でも、最も有名な短編は舞台化や映画化もされた「かえるくん、東京を救う」である。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/