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『コロナ禍の下での文化芸術』 特別編 【吹奏楽コンクールの是非〜世界的にも特異な日本の吹奏楽文化】

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『コロナ禍の下での文化芸術』

特別編
【吹奏楽コンクールの是非 〜 世界的にも特異な日本の吹奏楽文化】


※参考記事
イチカシ吹部自殺事件をきっかけに、全国吹奏楽コンクールの異常な過熱と長時間練習の誤りを考える
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12747757096.html


※参考記事
千葉県の市立柏高校 飛び降り自殺 背景に長時間部活動(産経2022/3/25)
https://www.sankei.com/article/20220325-ESX3WTI3FVJT5GYBR7P2PD22SQ/


上記の記事、本来なら柏市と同市立柏高校(イチカシ、と略称する)は吹奏楽部を一旦休部にし、問題を徹底究明する義務があったはずだ。
部活動が原因で自殺したかもしれない部員を、その事件究明を放置したまま、よくも平気で音楽がやれたものだと呆れてしまう。
イチカシの吹部だけがそういう闇を隠していたのではないのかもしれないが、教育の場としても、音楽活動の場としても、自殺者を出したままで活動を続けていられた神経を疑う。
完全に同調圧力のせいで、大人も子どもたちも人間の心を失っているに違いない。
一体、そんな人間がやる音楽が優れた音楽になるだろうか?
イチカシ吹奏楽部の部員自殺の件、吹奏楽コンクールが遠因であるかもしれないということを考えるにつけ、不思議に思う。なぜ全国吹奏楽コンクールはこんなに過熱してしまったのか?
イチカシ吹部自殺事件を考える上で、必読の研究を発見した。

※参考研究
「学校吹奏楽における外部指導者システムの確立をめざした一考察」
https://core.ac.uk/download/pdf/147578211.pdf

(新山王政和 愛知教育大学、矢崎佑 西尾市立鶴城中学校)


上記研究のように、2000年代初めにはすでに部活の民間委託や縮小議論は熟していた。だが文科省や各自治体にそのための予算がないのと、政府や霞ヶ関、音楽業界のコンセンサスが得られなかったのだろう。むしろ話は後退してしまって、今に至るというわけだ。
ところで、下記に紹介する拙作にも描いたように、80年代はじめにはまだ、吹奏楽コンクールはそこまでの行事ではなかった。
おそらく、バブル期が境目なのだろうか。80年代後半には、すでに吹奏楽コンクールの過熱はあった。
具体的には、こういう流れだ。大阪府内の中学高校吹奏楽部の場合だが、80年代初めにはまだ参加校が少なかった。だから、大阪府地区大会ではなく、いきなり大阪府大会に最初から参加していた。
ところが、このすぐ後の時期から、地区大会が必要になるぐらい参加校が急増したのだ。
これは、一つには、バブル期に入り、中間層の公立中高生徒にも、手頃な楽器が入手しやすくなったのが一因ではなかろうか?
それというのも、公立中高の吹奏楽部の活動には、楽器や指導者への報酬などの費用が通常の部活動よりも多くかかる。学校の部活動予算は基本的に大差ないのだが、伝統校であれば部活動を支える目的でPTA予算を使う場合があり、またOB・OGの金銭的、人的な支援も手厚いのだ。しかし、中堅以下の学校では、なかなかそうはいかないのが普通だった。
それが80年代後半、バブル期全盛になると、中堅校でも保護者の収入の増加に伴って、吹奏楽部員の楽器や指導者の確保もしやすいようになってきたのではあるまいか。
そこで、新規に中堅校が吹奏楽コンクールに参入していく場合、やはり学校の知名度を上げるための競争原理が前面に出てくることになりやすい。そうして、90年代以降になるとますます吹奏楽コンクールが過熱し、競争に勝つための長時間練習、パワハラ体質と集団心理が加速したのではないか。
ちなみに、吹奏楽コンクールを題材にしたエンタメ作品が、各ジャンルで頻出し始めたのもその後のことだ。
私は自分自身が雑誌の特集で記事を書いたのでよく知っているが、吹奏楽を題材にしたエンタメ作品が急に増えてくるのは、90年代後半からだ。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/