「鹿爪らしい」の例文
「しかのつめ? 鹿の、爪ですか?」
夏に向けた新しい企画の打ち合わせを終えた後、今度一緒に食事でもと誘われてしまい、なんで仕事以外であなたと時間を共にしなければいけないんだと喉元まで出かかった本音を飲み込んで咄嗟に思考を巡らせて、フランス料理とか詳しいですか? と値の張る店を奢ってくれるのなら考えてやってもいいがそうでないならお断りだと言外に含ませて答えると、いい店を知っていますよと返ってきた。鹿の爪を出す店なのだという。
聞き間違いかと思って聞き返したが、私の知っているあの鹿の、その爪で間違いなかった。曰く、日本人が知っているフランス料理は本当のフランス料理とは言えず、多くのフランス人も本当のフランス料理を一度も食たことがなく、本当のフランス料理には鹿の爪が出るのだという。あの鹿の、爪を、食べる。とは?
「若いほうが美味しいと思いますでしょう。実は逆なんです」
鹿の寿命は雄が十年から十五年、雌が十五年から二十年ほどで、美味しいのは十八歳を超えたあたりの老雌鹿の爪。ハーブとともに蒸して柔らかくすると他の食材では例えようのないサクサクほろほろとした食感になる。赤ワインベースのソースが合うが新鮮な爪なら何もつけなくても上品な甘さと程よい酸味が味わえる。ただし、前脚の爪に限る。後ろ脚はいけない。味は前脚よりも濃厚だが毒がある。などと鹿爪らしい顔で説明されて信じてしまったが、ぜんぶ嘘だった。ぶっ飛ばす。