ラーメンズ―その評価に関する検証と笑いの仕組みについて―

以下の文章は私が2022年1月に卒業論文として出したものを再構成したものです。問題があれば消します。

はじめに

第一節 研究の概要

コントグループ「ラーメンズ」は簡素な舞台、モノトーンの衣装、非日常を日常に溶けこませた世界観といった独特な作品を上演し、そのコントは「シュール」「アート」と評されている。しかし、「ラーメンズ」のコントは独自性を持ちながら、その一方で笑いの基本に則って作られているのではないかと考える。
 第一章では彼らのコントが「アート」と評される理由や、作品の分類について分析する。また、「シュール」という評価について、本来の「シュールレアリスム」や、それに類する「不条理」「ナンセンス」といった用語の意味と合わせてその評価が適切であるか検証する。
 第二章では、「ラーメンズ」のコントの笑いの発生する仕組みをベリクソン『笑い』や喜劇論、またコントや漫才の笑いについて分析した井山弘幸『お笑い進化論』などを用いて考察していく。

第二節 研究対象「ラーメンズ」について

まず「ラーメンズ」とメンバーそれぞれの紹介をまとめる。
「ラーメンズ」は一九九六年に多摩美術大学版画科の同級生であった小林賢太郎と片桐仁により結成された。一九九八年に第一回公演「箱式」を上演。一九九九年からNHKのお笑い番組である「爆笑オンエアバトル」に出演し知名度を上げたが、それ以外でのテレビ出演は稀であった。テレビ出演をしない理由については、小林が「僕らは、舞台を軸に活動してきました。なぜかというと、テレビと舞台を比べて、まず、テレビは露骨に共同作業なんですよね。それこそ僕がああしろこうしろって言って周りが動く程、テレビ内での立場も僕にはないですし。僕は自分の作品に何人もの手が加わるってことがすごく嫌なんですよね。全部自分でやりたいんですよ。」(ラーメンズ『ラーメンズつくるひと凸』太田出版、二〇〇二年八月、二七頁)と発言している。
二〇二〇年十二月に小林賢太郎がパフォーマンス業から引退することを発表し、現在「ラーメンズ」は実質解散状態となっている。彼らの最後の本公演は二〇〇九年の第十七回公演「TOWER」である。第五回公演「home」から第十六回公演「TEXT」まで(特別公演「零の箱式」を除く)が戯曲化、そしてソフト化は同じく第五回公演「home」から第十七回公演「TOWER」までされている。また、二〇一六年に「零の箱式」以外の公演映像がすべてYouTubeで公開された。

「ラーメンズ」の一回の公演はおよそ十分から二十分ほどのコント六~十本で構成される。初期は三分程度のコントもあるが、後期の公演になるほど、コント一本の時間が長くなる傾向にあり、二十五分を超えるもの(一)もある。彼らの公演は単なるコントの寄せ集めではなく、一貫したテーマのもと構成されていて、コント同士が関連していることもある。そのため、公演全体を見ると一本の演劇作品を見たように感じる。初期の公演にはその傾向は薄いが、第十二回公演「ATOM」からはその傾向が強まる。
小林賢太郎(一九七三年-)は「ラーメンズ」の脚本、演出をすべて担当している。「ラーメンズ」以外ではソロコント公演シリーズ「Potsunen」や演劇作品プロジェクト「KKP」、映像作家小島淳二との映像制作ユニット「NAMIKIBASHI」、枡野英知(バカリズム)との大喜利ユニット「大喜利猿」などと多岐に渡った活動がある。NHKで二〇〇九年から二〇一九年まで年に一回製作していたコント番組「小林賢太郎テレビ」以外でのテレビへの出演はほとんどなかった。二〇二一年夏に開催された東京オリンピック・パラリンピックでは開閉会式のショーディレクターを務めていたが、過去に発表したコントでユダヤ人大量虐殺を揶揄したということから非難され、解任された。
 また、漫画家としても活動し、一九九九年から二〇〇二年まで講談社の『ヤングマガジンアッパーズ』で「鼻兎」、また二〇一九年一月から一年間、同じく講談社の『イブニング』で続編「ハナウサシリシリ」を連載していた。現在も公式ツイッタ―アカウント「ハナウサカイグリ」で一ページ漫画を定期的に更新している。

一方片桐仁(一九七三年-)は小林と違いメディア露出が多く、俳優としても活動している。二〇一六年放送のTBSドラマ「99.9-刑事専門弁護士-」での出演が大きな話題となり、以降バラエティー番組への出演も増えた。「ラーメンズ」以外では事務所の同期であるエレキコミックと「エレ片」というコントグループを結成している。彼らは定期的なコント公演の上演や、TBSラジオで「JUNKサタデーエレ片のコント太郎」(二〇〇六年四月~二〇二一年三月)、「エレ片のケツビ!」(二〇二一年四月~)という冠番組のMC、またNHKの教育番組「シャキーン!」への出演といった活動をしている。小林の表舞台からの引退発表後はラジオ内で新たな相方を探し、キングオブコントへの出場を目指すという企画を行った。最終的に青木さやかが相方として選ばれ、「母と母」というユニット名でキングオブコントに挑んだが、結果は惜しくも準々決勝で敗退となった。
さらに、粘土造形作家としての顔も持ち、いくつかの雑誌で作品を連載していた。また、全国各地で「ギリ展」という粘土作品の展覧会を開催している。

第十回公演「雀」内「ネイノーさん」舞台写真(小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 椿鯨雀』幻冬舎、二〇〇七年八月、二〇五頁)


第十六回公演「TEXT」内「不透明な会話」舞台写真(小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 STUDY ƎƆI⅃A TEXT』幻冬舎、二〇一二年八月、二二八頁)


第一章  「ラーメンズ」の評価についての検証」

第一節 「アート」という評価

それでは、本章では「ラーメンズ」の「アート」「シュール」という評価について検証していく。

 美大出身という経歴を持ち、お笑い芸人でありながら各メンバーが漫画家や粘土造形作家としても顔を持つ「ラーメンズ」のコントは芸術的と評される。ミュージシャンの高橋幸宏は「ラーメンズにはちょっとアートな感覚も感じています。あの笑いのおおもとって、美大特有のものだと思うんです。ポップアートにも共通する、意味のない面白さとカッコよさの融合というか。」「片桐君は、ちょっと危ない感じもするんだけど、どちらかというと、アーティスティックな危うさを感じますね。」(高橋幸宏「無意味でバカバカしくて役に立たない」『広告批評二七四号』マドラ出版、二〇〇三年九月、一一四-一一五頁)と発言している。

 また、脳科学者の茂木健一郎は雑誌での「ラーメンズ」との対談において、「舞台上のパフォーマンスってなかなか分類が難しいけど、ラーメンズの場合、僕はやっぱり『アート』なんだろうなって思ってるんですけどね。」(「脳科学流ラーメンズ進化論 茂木健一郎×ラーメンズ」『広告批評三二一号』マドラ出版、二〇〇七年十二月、二頁)と発言している。これに対し小林は「コントですよ」と返し、アートという括りに入れられることに対して否定的な考えを持っていることが伺える。しかし、茂木が「お笑い」と括れるものではないのではないか聞くと、小林は「『わかりません』——っていう答えでもいいですか?定義するのが難しいんですよね。」と答え、片桐は「僕はお笑いだと思います。」とそれぞれ回答している(二)。作品の分類について、後年小林は著書で「つくりたかったものがたまたま世の中で『コント』や『演劇』と呼ばれているものに近かったから、そう名乗っている。」「一番大事なことは『面白いかどうか』です。」(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬舎、二〇一四、一四-一五頁)と述べている。茂木との対談時には自身の作品の立ち位置が曖昧であることを消化しきれていないようであったが、のちに立ち位置は明確にしなくてもよいものであるというように考えが変化していったことが窺える。

「ラーメンズ」のコントがアートと評される理由について、舞台装置や小道具、衣装の簡素さも加味されていると考える。「はじめに」で引用した舞台写真からも分かるように、舞台は基本的に黒か白の素舞台に近いもので、大道具はほぼ用いずに立方体の箱を椅子などに模して使用している。なお、例外として第一三回公演「CLASSIC」はホテルを舞台にしているという性質上、箱以外にベッドが舞台上に置かれている。「ラーメンズ」のポスターやソフトのパッケージデザインを担当しているグッドデザインカンパニーの水野学によれば、初期の公演「home」「FLAT」「news」は「箱」を通底するテーマにし、まだ世間的に認知の浅い「ラーメンズ」のブランディングを図ったという(三)。そのブランディングの通り、「箱」というのは「ラーメンズ」を象徴するものとなっている。

 また、小道具や衣装も必要最低限のもので、衣装替えは基本的に上着や眼鏡の着脱で済まされる。このことについて小林は、情報を制限して観客のパーソナルに入り込み、情報を自分の頭で補完させることによって作品にのめり込みやすくする効果を期待しているという。パーソナルに入り込むというのは、例えばコンビニが設定のコントの時に無地の服を着ていれば、観客が各々に一番身近なコンビニ、ファミリーマートであったりセブンイレブンであったりをイメージするということである(四)。装飾を可能な限り排した「ラーメンズ」のコントはお笑い番組などで見られるような、他の芸人が披露する一般的なものとは明らかに別種のものとして観客の目に映るだろう。それがお笑いとは違う、アートであるという評価に繋がっていると考える。

 ただし、作品のジャンル分けは明確でなくても、演じる小林本人は表舞台引退前には「パフォーミングアーティスト」を名乗っていた。パフォーミングアーツとは、デジタル大辞泉によれば「演劇・舞踊など、肉体の行為によって表現する芸術。公演芸術。舞台芸術。」(「パフォーミング‐アーツ【performing arts】」『 デジタル大辞泉』小学館、 JapanKnowledge 、https://japanknowledge.com 最終閲覧日:二〇二一年一二月三一日)のことである。舞台上で表現することに重きを置いて活動していた小林の主義が、この「パフォーミングアーティスト」という肩書きに現れている。

 「パフォーマンス」という言葉が使われ始めたのは一九六〇年代からである。動物の肉体や血を使った過激なパフォーマンスを行ったオーストリアのヘルマン・ニッチュや、パフォーマンスを通じて政治、社会運動を行ったドイツのヨーゼフ・ボイスらがこの時代の代表的なアーティストとして挙げられる(五)。小林の作品は彼らのような過激なパフォーマンスではなかったが、パントマイムや声帯模写を用いて、身体を使って生の表現をすることにこだわりを持っていたように見える。また、彼は著書において以下のように述べている。

 舞台の魅力は、観客側がある程度の努力をしている、というところにもあります。チケットを買う、予定をたて、劇場まで行く。そういう「観たい」という観客側の努力。これと「観せたい」というエンターテイナーの努力がぶつかり合う。そうして生まれる独特の高揚感が、劇場にはあるのです。
 舞台から観客に発信できることの規模には限界があります。一度に伝えられるのは劇場の客席の数だけなのですから。けれども、そのぶん濃いものだと思っています。なにしろ直接会ってるわけですから。(中略)何の媒体も通さず、直接「体験」として楽しんでいただく。僕は、この舞台という特別な仕事を、誇りに思っています。

前掲書 小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』一九頁

 観客と演者のフィードバック効果が生み出す舞台ならではの高揚感に、小林が魅力を見出していることが分かる。彼が舞台で生の表現にこだわる理由がここから窺える。これらを総合すると、ラーメンズのコントのジャンルは明確でなくても、演じる本人のアイデンティティは舞台上で身体表現をするアーティストであるのだろうと考えられる。

第二節 シュール、不条理、ナンセンス

「ラーメンズ」のコントを評す際に「シュール」という言葉が使われることがある。二〇〇二年二月二十一日朝日新聞夕刊にはシュールな笑いで快走『芸術的コント』のラーメンズ」という記事が掲載された。また、井山弘幸は『笑いの方程式 あのネタはなぜ受けるのか』(化学同人、二〇〇七年九月)において、ラーメンズのコントをいくつか例に出し、「現実にはありえない事態や存在を導入するが、その他については現実の機構が忠実に守られている」=「SF系シュール」(一六八頁)と名付けている。演劇用語としてシュールを捉えた場合、ラーメンズのこの評価は適切なのだろうか。

「シュール」は本来シュールレアリスム(超現実主義)のことである。では、シュールレアリスムとは何だろうか。テリー・ホジソンの『西洋演劇用語辞典』から引用する。

パリで象徴主義やダダイズムから発展した、一九二〇年代の重要な文学・芸術運動。夢や無意識の心の世界に関心があり、リアリズムや中産階級の芸術や姿勢を攻撃したので、シュールレアリスムは劇や映画に非常に強い衝撃を与えた。アルトーの残酷演劇やいわゆる不条理演劇はシュールレアリスムに源がある。

「シュールレアリスム」『西洋演劇用語辞典』研究社出版、一九九六年四月、二○八頁

また、デジタル版 集英社世界文学大事典では、下記の引用中にある「残酷演劇」の項で以下のようにシュールレアリスムについても解説している

フランスの演劇理論家アントナン・アルトーが主唱した演劇理論。一九二四年パリでシュルレアリスムの運動に加わったアルトーは,演劇と映画の活動をしながら,シュルレアリストたちが発見した夢と無意識の未知の世界を舞台上に実現しようと試みる。

「残酷演劇」『 デジタル版 集英社世界文学大事典』集英社、 JapanKnowledge、https://japanknowledge.com 最終閲覧日:二〇二一年一二月三一日

さらに、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編著『演劇百科大事典』第三巻(平凡社、一九六〇)の「シュールレアリスム演劇」の項では演劇史的に確立されていない用語だとしつつ、「心象を現実的次元と切り離して劇的に具象化する超現実的な演劇と解」(一八四頁)している。夢や無意識の世界はえてして現実とは異なった色彩や形で構成され、そして物理法則を超越した起き得ないことが起こる。それを舞台上に表現したものがシュールレアリスム演劇と解釈できる。
 『西洋演劇用語辞典』で言及されている不条理演劇について、同書ではサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」とウージェーヌ・イヨネスコの「椅子」を例に出し、次のように説明している。「観客は、説明を必要とし、かつそれを拒否するような、奇妙でしばしばグロテスクなイメージとともに取り残される。その結果、不条理な状況や、登場人物が不愉快な真実を認識できないことから悲喜劇が生まれる。」(「不条理演劇」前掲書『西洋演劇用語辞典』三七〇頁)
 「ゴドーを待ちながら」は二人の浮浪者エストラゴンとヴラジーミルが、一本の木の前でゴドーという人物を待っている場面から始まる。二人は無為な会話を繰り返している。そこに首を綱で括られたラッキーとその主人ポッツォがやって来る。ポッツォはラッキーを市場に売りに行く途中だという。彼らはしばらくの会話ののち去り、再びエストラゴンとヴラジーミルはゴドーを待つ。するとゴドーの使者の少年がやってきて、彼が今日は来られず明日は来るという伝言をして第一幕は終わる。第二幕は翌日の同じ場所で、第一幕と同じような流れを繰り返すが、ところどころおかしい。第一幕では裸だった木に葉がついている。ポッツォは目が見えなくなっていて、ラッキーは口が利けなくなっている。彼らが去った後にやって来るゴドーの使者の少年は、昨日この場所には来ていないと言う。少年が去り、浮浪者二人は行こうと言いながら動かず、作品は終わる(六)。ゴドーとは誰なのか、第一幕と第二幕は本当に同じ世界なのかといった、観客が持つであろう疑問については一切説明がされない。
 「椅子」の舞台は九十五歳の老人とその妻である九十四歳の老婆が住む、水で囲まれた住居である。老人は人類を苦しみから救う術を見つけ、その代弁を弁士に頼んで講演会を開くことにする。そして招かれた客(実際は見えない)が次々とやってきて、老人たちは彼らをもてなしながら舞台上に椅子を並べていく。住居は客でいっぱいになり、皇帝までやって来る。弁士が到着すると老人と老婆は光栄の中で死にたいと、皇帝陛下、万歳!と叫び窓から飛び降りる。残された弁士は耳も聞こえず、口もきけない。彼は黒板に単語をつづり、去っていく。目に見えない客たちのざわめきで幕となる(七)。
 このように、奇妙な状況を奇妙のままとし、観客側に解釈を委ねることを以上の二つの戯曲はしている。
 また、貴志哲雄が「ゴドーを待ちながら」について以下のように解説している。

『ゴドーを待ちながら』は二幕の劇になっており、それぞれの幕では、細部においては微妙に異なりながら基本的には同一の事件が繰り返される。これによって観客は、人間の現実認識の頼りなさを思い知らされるにちがいない。人間には時間や空間を正しく認識することはできるのか。同じ場所だと信じているふたつの場所は、本当に同じ場所なのか。昨日だと信じている時間は、本当に昨日なのか。同一の存在だと信じている人間は本当に同じ存在なのだろうか。こういう疑問が生まれる前提には、複数の状況を比較するという手続きがなければならない。だから、どうしてもふたつの幕が必要になるのである。

喜劇の手法 笑いのしくみを探る』集英社、二〇〇六年二月、八三頁

つまり、「ゴドーを待ちながら」においてベケットは観客に対して人間の現実認識の不確実性を投げかける。そのような命題のために、あえて理解しがたい状況を設定し、さらに説明をしないという手法を取っていると考えられる。
 そして、そもそもの「不条理」の意味を井山がアルバート・カミュの思想を引用しながらこう述べている。

不条理はabsurditeの訳語で、その形容詞形absurdeは「筋道が通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」を意味する。だから表面的にはわけのわからないことでも構わないのだが、その理解不可能性は人間にとって根源的なものであって、「鯖が飛んでくる」ような偶然的なものではない。『シジフォスの神話』の中で彼[カミュ:引用者注]は、「人生に意味を見出せずどこにも希望がない」という意味で「人生は不条理である」といい、不条理なものとは「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態」だと考えた。世界がわからないことの理由は、その根底に存在する論理性の欠如であり、解消できない矛盾であり、あるいは不整合な構造であった。

井山弘幸『お笑い進化論』青弓社、二〇〇五、九九頁

引用中にある「鯖が飛んでくる」というのは、その前に例として出された「ザ・プラン9」のネタである。ダジャレが法律で禁止された世界という設定で、芝居をする際の対策として「シュール」なことを言えばいいと登場人物が提案する。そして、彼はシュールとは不条理でわけのわからないことだと説明し、「みなさん、こんにちはぁ~、うわーきょうもきれいなお客さんがたくさん入ってますねえ。前の端から、別嬪さん、別嬪さん、一つ飛ばして、わっ危ない鯖だ[頭を抱える]、ふーっ危なかった。でもどうして鯖ってあんなに青いんだろなー。でもそれは地球がなぜ青いのかっていうのと何も変わりはしないね」(同前 九八頁)というギャグを披露する。しかし、井山はこの意味の分からないことを不条理、シュールと結びつけるのには無理があると、前述のように不条理の意味を述べている。「不条理」というのは単に意味の通じないということではなく、人類の生きている世界の非論理性を指した言葉でもある。このことは、先ほど引用した貴志の「ゴドーを待ちながら」についての解説にも通ずる。この作品の中の世界は一幕と二幕と独立した幕で見れば、それぞれ不整合性はない。しかし、作者により二つの世界が繋ぎ合わされ、対比されることによって、理解不可能性が生じる。この理解不可能性は作者の意図によって生み出されたものであり、偶然には拠らない。井山が引用したカミュの言うところの世界の不整合構造を疑似的に舞台に生じさせているというのが、この「ゴドーを待ちながら」なのだろう。
 そして、シュールと不条理と並んで井山が挙げた言葉に「ナンセンス」がある。ナンセンスの語義をデジタル大辞泉で引くと、「意味をなさないこと。無意味であること。ばかげていること。また、そのさま。ノンセンス。」(「ナンセンス【nonsense】」『デジタル大辞泉』小学館、JapanKnowledge、https://japanknowledge.com 最終閲覧日:二〇二一年一二月三一日)とある。不条理やシュールとは異なり、明確に意味がないものがナンセンスと分類されるということだ。このナンセンスの例として井山はバカ殿様(志村けん)の「アイーン」や大木こだまの「チッチキチー」を挙げている(八)。不条理は「表面的はわけのわからないこと」であってもその分からなさの根源は、世界の非論理性に由来するため、ただ単に意味が分からないナンセンスとは異なる。
 これらを総合すると、シュールレアリスム演劇は夢や無意識の世界を具現化したもの、不条理演劇は現実世界に即してはいるものの論理的な説明のできない状況を描き、またその理由があったとしてもその説明をせず解釈を観客にゆだねるもの、そしてナンセンスは意味をもたないものと解釈できる。井山はシュールの定義を「非現実な展開や不可能なものの存在のなかに『何かリアルなもの』を感じさせる場合」(前掲書 井山弘幸『お笑い進化論』一〇二頁)としているが、これは不条理の定義としたほうが適切であると考える。しかし、現代の日本ではシュールという言葉は本来のシュールレアリスムより広い意味を持つようになっている。現代を反映している資料としてフリー百科事典のWikipediaから引用する。「シュルレアリスム」の項でシュールが俗語として以下のように解説されている。

一九九〇年代末期頃から、日本のメディアや俗語において「シュール」であるということは、超現実主義の意味から逸脱して「ナンセンス」「不条理」であるという意味で使われるようになった。あくまで「シュールな」「シュールだ」というように略称でのみ使われ、本来のシュルレアリスムからは独立した別の概念として扱われている。

「シュルレアリスム」ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0#%E6%97%A5%E6%9C%AC 最終閲覧日:二〇二一年十月十七日

 また、「現代用語の基礎知識二〇一九」では「シュール」が「超現実的な。あり得ない。」(「シュール」『 現代用語の基礎知識二〇一九 』自由国民社、二〇一八年一一月、JapanKnowledge、 https://japanknowledge.com 最終閲覧日:二〇二二年一月一一日)とのみ解説されており、現代ではこの言葉の持つ意味の範囲が拡大していることが分かる。井山は本来の用法とは異なった俗語として「シュール」が広まっている事実を勘案し、前述のような定義を述べたと考える。
 以上のことより、演劇用語に則ったうえで「ラーメンズ」の作品を評す際には「シュールコント」というより「不条理コント」と言うべきではないだろうかと考える。彼らのコントは夢や無意識の世界を扱っているものではなく、あくまで現実と地続きだからである。コント中の世界について、小林は「極端でない、激しくない、登場人物にとっての日常」を扱いたいと述べている(九)。そして、この「登場人物にとっての日常」は不条理性を孕んでいる。登場人物にとっては日常であったとしても、観客から見れば非日常の異世界が描かれていることが多い。しかし、この異世界はこちら側の日常にも即している。
 例えば、第六回公演「FLAT」内の「初男」(小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 home FLAT news』幻冬舎、二〇〇七年四月、八六-九〇頁)というコントは雪や雨と同じように、「男」が降って来るという設定の世界を描く。その年に初めて落ちてきた男「初男」(片桐)を、大学生(小林)が見つける冒頭を引用する。

片桐「どうも、初男です」
小林「……もうそんな季節かあ。最近の気象庁はあてにならないなあ」
片桐「そうみたいですね。皆さん平気で布団を干してらっしゃる。小一時間もすれば、二人目三人目が東京のどっかに降りますよ」
小林「それは、きっとみんな喜ぶでしょう」
片桐「最近の方はワタクシたちにあまり興味ないらしい。ご覧なさい、ぱっと見たかぎり、どこの家も玄関にお餅を置いてない。でもいいんです。ちょっと遠いけど、田舎の方まで歩きますから」

上に見るように、大学生は落ちてきた男に何の疑問も抱くことなく、当たり前のこととして会話までしている。しかし、このコントの世界が理解不可能であると断絶してしまうには、あまりにも観客側の現実世界に寄りすぎている。なぜなら、「気象庁」といったワードが用いられているからである。我々の世界にある言葉が用いられることで、舞台上の異世界が我々の日常に近づき、現実の延長線上となる。「男が降って来る」という論理的に説明のつかないことを描き、またその男についても具体的説明がされずに観客側の想像に委ねられてはいるが、一方で現実に即した世界が展開されるためこのコントは不条理と言えるだろう。
 もう一つの例として、第八回公演「椿」内「斜めになった日」(小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 椿 鯨 雀』幻冬舎、二〇〇七年八月、六二-七二頁)を挙げる。このコントの世界では、年に一度重力が斜めになる「斜めの日」がある。その斜めの日が誕生日で、自分の誕生日パーティを企画する男(片桐)と友人(小林)の、斜めの日当日の話である。小林が新聞を読む場面を引用する。

小林 新聞を読み始める。
  「……ふっ」
   笑う。
片桐「何だよ」
小林「いやあ、新聞の川柳。〝斜めの日 グラス持たずに お酌され〟」
片桐「それがどうかした?」
小林「いやあ、うまいなあと思って」
片桐「そおか?」
小林「だってこれって、斜めの日だから、ビールつぐときグラスをかたむけなくてもいいってことだろ?うまいじゃん」
片桐「…………」
小林「あ! お前分かんなかったの!?」
片桐「分かってたよ!」
小林「本当かー? しかもこれ、斜めの日っていう季語が入っているから、川柳を超えて俳句としても成立してるんだぜ」

 斜めの日自体は観客側にとっては未知の事象ではあるが、引用した会話は斜めの日を除けばいたって普通の会話であり、川柳や俳句についてもこちらの世界のルールが適用されていて理解できるものである。このコントも現実世界に近い、一部が非日常の世界を描いている。
 このように、現実世界に即しつつも、一部が異なる世界を描く「ラーメンズ」のコントは不条理コントと分類すべきと考える。

第二章 「ラーメンズ」の笑いの発生について

第一節 台本の計算

本論で「ラーメンズ」のコントを分析することにしたきっかけとして、小林がインタビューで膨大な数のコントを作る大変さについて尋ねられた際の以下の発言を挙げる。

方法論があるんです。僕なりのマニュアル。最初にそれを考えました。プロになりたいと思ったので、プロとなれば、例えば風邪ひいて作れないとか、気が乗らないからダメとかいうようなことは通用しないだろう、でもマニュアルがあれば大丈夫。波に乗ってる時は本能的に書けるけど、時間がなくて書けなかったりしたら困るから。

し手・ラーメンズ、聞き手・島森路子「面白いことは向こうにある」『広告批評二五二号』マドラ出版、二〇〇一年九月、五三頁

大学時代からお笑いを学問として捉え、ビデオやテレビを繰り返し見ながら、どんなコントや漫才にも当てはまる公式を考えたという(一〇)。そして、その経験を基にコントのマニュアルが作成された。そのマニュアルがどのようなものか詳しいことは明らかにされてはおらず、「簡条書きにして、机の前に貼ってありますけど、知ってしまったら、たぶん面白くないですよ。手品のタネだと思っていただけばありがたいんですけど。」(同前 五三頁)と述べられている。
 このように「ラーメンズ」のコントは笑いについてのマニュアルで作られているということは、芸術的と言われていても笑いの基本に則っており分析可能であると考えた。
 笑いの基本に則っている例として、第十回公演「雀」内「プレオープン」(前掲書 小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 椿 鯨 雀』一八三-一八八頁)を挙げる。このコントの舞台はテーマパークのアトラクション「タイムマシーンアドベンチャー」で、小林はそのスタッフである。片桐はロボット「キャプテンカテゴリー」として登場する。キャプテンカテゴリーはト書きで「影マイクの台詞に合わせてロボットのように動く」と指定されている。なお、影マイクは小林が担当する。このキャラクターはベルクソンの提唱する身振りや動作のおかしさに当てはまっている。ベルクソンは『笑い』において以下のように述べている。

人間の身体による態度、身振り、動作がどれくらい笑いを取るかは、当の身体が単なる機械をどの程度までわたしたちに連想させるのかということと、正確に対応している。

ベルクソン[増田靖彦訳]『笑い』光文社、二〇一六年六月、五三頁

 ただし、機械とほぼ同一のようになってしまうとそれは笑いではなく、称賛されるパフォーマンスになってしまう。あくまでも人間が透けて見えてこなければならない。今回のキャプテンカテゴリーの場合は、機械音声ではなく小林の声を用いることで、人間性を保ったまま機械の模倣ができており、笑いに繋がるのではないだろうか。
 小林がベルクソンの『笑い』を読んでいるかは不明であるが、このように笑いの基本にしっかりと当てはまる作品が存在するということを述べておく。
 「ラーメンズ」の台本の計算についてDJの田中知之(Fantastic Plastic Machine)は「シティボーイズ」や「ダウンタウン」の松本人志と比較し、以下のように持論を述べている。なお、小林は両者ともに影響を受けていると度々発言している。

僕の世代で、ポピュラーなお笑いというと、西は吉本で東はドリフターズ。その二つはどちらも大衆文化だから、見る人にインテリジェンスなりスノビズムを要求しないんですよ。その点、シティボーイズは、ある程度の知的水準をクリアしないと笑えないところがあるし、イッセーさん(イッセー尾形:引用者注)にもややそれと近いものを感じます。一方の松本さんになると、アドリブだけで延々とホームランを打たれている方だから、緻密な計算とか訓練の上に成り立ったラーメンズとは明らかに違う。ただラーメンズには、計算とか訓練を感じさせない何かもあって、インテリジェンスを押し付けるわけではないのに最後は知性を感じさせるという、非常に説明しづらいお笑いですね。(笑) 思うに、彼らは計算はしてはいるけど、最後の最後で運任せにしている部分があるんじゃないか。完璧に計算し尽くしたものって、アクシデントやアドリブに弱かったりしますけど、ラーメンズの場合はアクシデントやアドリブに対しても天才な動きを見せますからね。

田中知之「努力と才能と運の三位一体」『広告批評二七四号』マドラ出版、二〇〇三年九月、一一六頁

計算を基に「ラーメンズ」のコントは作られているが、一部に余裕をもたせることで強度が生まれているという指摘だ。この指摘は以下引用する片桐と小林の発言でさらに補強される。

 わかりやすいんです。あいつの台本は。作品が十だとしたら、ラーメンズの場合、台本が八割くらいなんです。普通、お笑いだと、台本が占める割合って半分くらいで、それを自分たちの力で十にしていくっていうパターンが多いと思うんです。演劇って、それがたぶん、台本八割じゃないですか。だからラーメンズが演劇に近いって言われるのは、それが原因だと思うんですね。賢太郎も自分で書いた台本だけど、その台本に自分をはめていく感じで、それだけ台本が信頼できるものになってるし、あいつがたまに言うのが、「この台本があれば、だれがやっても面白い」って。中には僕らじゃなきゃできないのも、多少はあるけど。

話し手・片桐仁、聞き手・島森路子「やってる自分が面白い」『広告批評二七四号』マドラ出版、二〇〇三年九月、一二八頁

設計図は綿密に書いても、その建物が立体になるのは劇場だし、そこにお客さんが入って初めて人が住んでいると言えるのかもしれない。住んでみて初めて気がつくことってあるじゃないですか。物件見て気に入って、住んでみると意外とここが不便だったとか。逆に最初気がつかなかったけど、ここからの景色は実はすごくよかったみたいな。そういうことは現場でバンバン起きます。稽古場で予想していた方程式の「=」から先は白紙で、その答えが現場でどんどん書かれていく。そういう自覚はありますね。

「脳科学流ラーメンズ進化論 茂木健一郎×ラーメンズ」『広告批評三二一号』マドラ出版、二〇〇七年一二月、四頁

「ラーメンズ」のコントは台本の時点でしっかりと作りこまれているが、それが舞台に載ったときの反応は未知数であることを自覚し、田中の指摘するところの「運任せ」、つまり余白を残しているということだろう。この自覚があるとないとでは作品の出来は大きく異なると考えられる。余白が無く作りこまれたコントは観客の笑いを置いてきぼりにしてしまう。余白があるからこそ、その日その日で変わる観客の反応に対して柔軟に対応することができる。

第二節 作品分析—パラレル・ワールドによる笑い

第一章で「ラーメンズ」のコントは現実に即した非日常の世界を描いていると分析した。このことにより、「世界」が「ラーメンズ」のコントの笑いについてのキーワードだろうと考える。この「世界」というキーワードに基づいた笑いについて、井山弘幸の提唱する「パラレル・ワールド」の考えが当てはまった。
 井山は『お笑い進化論』において、笑いは舞台上の世界の比較によって発生するとしている。例えば、チャールズ・チャップリンの『モダン・タイムズ』でチャーリーがトラックから落ちた旗を持ち主に帰そうと、それを掲げて追いかけるシーンがある。その後ろから労働者のデモ行進がやってきて、あたかもチャーリーがその先導者のように見えると観笑いが発生する。ここでは「落とし物を落とし主返そうとする善意の世界」と「労働者が結束し世間に向けて示威運動をおこなう世界」が重複し、その中間点にチャーリーが置かれる。この二つの世界の競合によって笑いが生まれる。井山はこの物語世界、舞台上で競合が行われる世界のことを「パラレル・ワールド」と名付けた(一一)。
 そして、井山は「ラーメンズ」初期の作品「現代片桐概論」をパラレル・ワールドの考えを用いて分析している。このコントは小林が架空の大学である沖縄片桐大学の非常勤講師として、カタギリジンピテクスという架空の有袋類についての講義、「現代片桐概論」を行うというものだ。カタギリジンピテクスの剥製標本は片桐が演じ、最初から最後まで固まったまま喋らない。架空の生物カタギリ(コント中ではカタギリジンピテクスはカタギリと略される)が生息し、さらに「現代片桐概論」という授業が存在する舞台上の世界は観客にとっては謎めいたパラレルワールド(P世界)である。しかし、小林が行う授業は大学の講義を模したものであり、喋り方や所作も現実の教員そっくりに演じられているため現実世界(R世界)も同時に舞台上に立ち現れてくることになる。井山は「この場合の笑いを引き起こす競合関係はP世界とR世界(現実世界)との間に成立し、両者のあいだを観客の意識はめまぐるしく揺動することになる。」(『お笑い進化論』青弓社、二〇〇五年五月、一一七頁)と述べている。
 本節では「ラーメンズ」のコントで特にパラレル・ワールドの手法が用いられていると考えられるもの二本ををピックアップし、分析していく。


第十四回公演『STUDY』より「study」(小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 STUDY ALICE TEXT』幻冬舎、二〇一二年八月、八-一七頁)

片桐 大きくため息。
「鉛筆も、ノートも、使い切ったことがないまま、大人になってしまいました。中学高校と、六年間も学んできた英語が、しゃべれません。読めるけど、書けない漢字が、たくさんあります。知ってるはずなのに、どっちが右で、どっちが左かを時々考えてしまうことがあります。全部……あなたの言うとおりだ」
小林 ……包容力のある感じで見ている。
片桐「いつかは克服できるだろうと思っていることは、克服できないままに……僕は、消えてなくなっていくのだろうか」
小林「私の国にこんな言葉があります。『〝学習〟とは〝愚かなギャンブラーだ〟。どちらも最後は、全てを失う。』」
片桐「でもやっぱり、人生を豊かにするために、学習することは……」
小林「身の程をわきまえてください。この世界にある長い長い時間の中で、今までいなかったあなたという存在が現れて、今いて、そしてまた、いなくなっていく。何もなかったかのように、完全に消えるんです。私を含め、人間の存在とは、ただ、それだけのことです」
片桐「だったら……」
小林「〝悔いのないように生きる〟ですか?消えていなくなれば、その〝悔い〟を感じる、あなた自体が存在しなくなるんですよ。この広い広い宇宙の中で、あなたの存在など、もはや〝ない〟んです」
片桐「……理解するのが、怖いです」
小林「申し訳ないが、そこまで感情を察してあげるほどの価値はあなたにない。怖いでしょうが、ご理解ください」
片桐「……しました」
小林「本当ですか?」
片桐「本当です」
小林「本当ですね?」
片桐「本当です」
小林「ならば、改めて聞きます。……私の万引きを許しますね」
片桐「……うーん」

今回の「study」の場合、ここででパラレル・ワールドの正体が明らかとなり笑いが生まれる。宇宙という壮大な世界を引き合いに出す哲学のような話と万引き犯と店員のやりとりのという二つの世界が競合している。この小林の「……私の万引きを許しますね」という台詞により、この場所がどこなのか、二人の関係性がどのようなものなのか、という世界のピントが急に合い、観客がそれまで見ていた世界とのギャップが起こる。

小林「いいですか、この世界に、あなたという存在があって、そして、消えてなくなっていく。家電売り場にMDウォークマンという存在があって、そして消えてなくなっていく。ただそれだけのこと」

片桐「そこなんですけどね、ウォークマンは消えてなくなってないんですよね。ここにあるんですよね」

無茶な理論で相手を丸め込もうとする小林だが、物質の存在についてという壮大な話で万引きという犯罪をごまかそうとしている矮小さが引き立ち、そこでも笑いが生じると考えられる。
 さらに、以降の展開は喜劇における反復の手法が用いられる。小林は再び片桐を煙に巻こうとする。

小林「私の国に、こんな言葉があります。『〝物質〟とは〝遠い景色〟だ。どちらも、何もないからこそ目に見える』」
片桐「いや、あなたの言っていることの、ひとつひとつは何となく分かるんです。僕自身、人生なんて、考えたこともありませんでしたから。でも、それとこれとは違う話じゃないんかなって」
小林「(ゆっくり首を横に振って)違いません。何ひとつ、違いません。人間は、何も克服できないままに消えていきます。だから私も、この手癖を克服できないままに消えていきます。ただ、それだけのことです。それだけのことに対して、なぜ店長を呼びますか?」
片桐「でもバイトの僕の一存でこういうことは」
小林「肩書という浅はかな価値観で、人間を縛るのはおやめなさい。私の国にこんな言葉があります。『〝肩書き〟とは〝部分的なピノキオ〟だ。どちらも〝カタガキ〟〝肩が木〟』……権力なんて、つまらないエゴイズムなんです。……お分かり頂けましたか?」
片桐「……はい」
小林「店長は呼びませんね」
片桐「……はい」
小林「素晴らしい。ならば改めて聞きます。……私の万引きを許しますね」
片桐「……うーん」

上に見るように、小林の「……私の万引きを許しますね」という台詞、そしてそこに至るまでの流れが内容を変えつつ繰り返される。貴志哲雄が喜劇の手法として「反復」を挙げている(一二)。この反復の手法は人間を主体性のない機械的なものに見せるという。前述したベリクソンの提唱する身振りや動作のおかしさ、つまり人間が機械に近くなると笑いが生まれるという指摘にも繋がると考える。
 以上、「study」ではパラレル・ワールドと反復の手法が用いられていると分析する。

第十四回公演『STUDY』より「いろいろマン」(前掲書 小林賢太郎『小林賢太郎戯曲集 STUDY ALICE TEXT』七二-八二頁)

色のいろいろが大好きな〝いろいろマン”(片桐)。カラフルなマントを身にまとい、結婚相談所(社員…小林)に現れる。
 
片桐「(七五調で)こういうことを言っている、得意面した小学生。“青信号、青じゃなくって緑じゃん”そういうお前に言ってやろう。赤いキツネと緑のタヌキ、どちらも中身は茶色だ!茶色のタヌキ。それは普通のタヌキだ!わっはっはっはっは!赤味噌は赤っぽい味噌。許す!」
小林「すいません」
片桐「あとミドリガメもわりと」
小林「すいません!」
片桐「黄色いとことか赤いとことか……」
小林「時間ないんです。はじめていいですか」
片桐「いいよ」
小林「えー、当結婚相談所をご利用頂くのは初めてですね」
片桐「そうだよ」

 ここでマントを着た非現実な世界の片桐と結婚相談所という現実の世界のギャップが生まれる。

小林「お名前は」
片桐「いろいろマンです」
小林「本名で」
片桐「何でそんなことを教えなければならないのだ。お前のような〝肌色の赤の他人〟に。お前にいいことを教えてやろう。〝灰色の政治家〟も〝犯罪の黒幕〟も〝紫式部〟も〝赤の他人〟も〝知り合い〟も基本的には肌色だ!裸の政治家。え?裸!?」
小林「すいません」
片桐「黒潮は青い!赤潮は赤っぽい。ギリギリセーフ」
小林「すいません」
片桐「青い山脈は茶色と緑」
小林「紹介しませんよ」
片桐「青島です」
小林「青島さん。下のお名前は」
片桐「レインボー」
小林「日本人でしょ」
片桐「いろいろマンに国籍などない。青い地球は近くで見ると茶色が多い」
小林「紹介しませんよ」
片桐「松彦」
小林「松彦さん。青島松彦さんね。おいくつでいらっしゃいますか?」
片桐「当ててみろそれくらい。お前は人を見るのが仕事だろう。肌色の青二才が。ただし俺は青い青二才を見たことがない。青かろうが黄色かろうが二歳は赤ちゃんだ!ただし俺は赤い赤ちゃんを見たことがない!肌色ちゃんだ!俺も―!」
小林「紹介しませんよ」
片桐「前厄」
小林「四十一ね。で?ご職業は」
片桐「いろいろマン」
小林「紹介しませんよ」

ここの流れは井山が分析した青木さやかのエレベーター・ガールのコントの構造に似ている。このコントは公団住宅のエレベーターで勝手に女がエレベーター・ガールになりきり、住民の生活をアナウンスするというものである。

日常世界の約束事を踏みにじって、小さな箱のなかで場内放送が始まる。唐突な非現実の設定から、正真正銘のエレベーター・ガールである友人と会って「メジャーデビューしたんだ。でも私はインディーズでいい」と自らの置かれた状況を現実的に説明したあとで、再び非現実的な場内放送。かくしてその放送内容は(中略)妙に細かい点がリアルにできている。かくして二つの世界のあいだに現実と非現実との往還運動が生じ、このディティールが観客の緊張を弛緩させ、心地よい笑いの境地へと誘い込むのである。

前掲書 井山弘幸『お笑い進化論』七六頁

このように井山が指摘している「往還運動」は「いろいろマン」にも当てはめられるだろう。片桐の持つ非現実の世界が小林によって現実に引き戻されるという流れを繰り返している。「study」では現実に引き戻す役割も非現実側(小林)が担っており、「いろいろマン」とは異なる。
 しかし、「いろいろマン」では終盤にこの流れに変化が起こる。小林は片桐にブラックリストを見せ、そこに載っている女性たちを紹介する。

片桐「なにー!っよーし!見つけるぞー!俺の〝補色〟。おい、この“緑川ミドリ子”ってどんな女だ」
小林「全身緑なんです」
片桐「ふうん。変なの。この〝村崎パプリコ〟はどんな奴だ」
小林「全身緑なんです」
片桐「ふうん。変なの。桃木ピン子」
小林「ピンクなんです」
片桐「おいおい、よりどりみどりだな」

非現実な「緑川ミドリ子」や「村崎パプリコ」を本来現実側にいた小林が紹介し、非現実側にいた片桐が「変なの」と現実に即した回答をし、立場の逆転が起きている。ここでも世界のギャップが生じ笑いに繋がると考えられる。
 以上挙げた二つのコントは非日常と日常のパラレル・ワールドでの競合が行われているものである。
 第一章で貴志の「ゴドーを待ちながら」についての解説、また井山の不条理に関しての見解を合わせて導き出された結論、つまり「ゴドーを待ちながら」は舞台上の世界を二つ観客に見せ、比較させることによってあえて理解不可能性を生み出しているというのは、本章で引用したパラレル・ワールドの考えにも繋がる。場単位の世界なのか、それとも登場人物たちそれぞれが持つ世界なのかという部分は異なるが、世界を比較するという点においては同じだ。そのように考えると、舞台上で世界の比較が行われても笑いが発生する場合とそうでない場合(ゴドーを待ちながら)があることになる。これに関してはまた別途検証が必要である。

おわりに

 本研究ではコントグループ「ラーメンズ」について、彼らに対する「アート」や「シュール」という評価の検証、また彼らの作品の笑いの発生する仕組みについて分析を行った。
 「ラーメンズ」の作品は「アート」ではなく、ジャンルは明確にしないものであると分かった。また、「シュ―ル」という評価は演劇用語においては不適であり、「不条理」とすべきであるという結論に至った。普段何気なく使っている言葉も、その意味を基本に立ち返って調べることの重要性を感じた。
 そして、「ラーメンズ」のコントは笑いの仕組みを組み合わせることにより分析することができた。喜劇に用いられる手法にはベリクソンの提唱する動きのおかしさと通ずる部分があり、ほかにも探っていけば新たな繋がりの発見がありそうだ。

注記
(一)第一二回公演「ATOM」内「採集」
(二)「脳科学流ラーメンズ進化論 茂木健一郎×ラーメンズ」『広告批評三二一号』マドラ出版、二〇〇七年十二月、二頁
(三)話し手・水野学、聞き手・島森路子「ラーメンズは品質のいい商品です」『広告批評二七四号』マドラ出版、二〇〇三年九月、一〇二-一〇三頁(四)小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬舎、二〇一四年九月、二三頁
(五) 佐々木成明「メディアとしての身体 ― パフォーミング・アーツ」メディアアートの教科書 多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース作品集、二〇一四年http://www.idd.tamabi.ac.jp/art/museum/art_and_media_program/performingarts/ (最終閲覧日:二〇二一年一二月三一日)
(六)サミュエル・ベケット(安堂信也、高橋康也訳)『ゴドーを待ちながら』白水社、二〇一三年六月
(七)ウージェーヌ・イヨネスコ(安堂信也訳) 「椅子」『ベスト・オブ・イヨネスコ 授業犀』安堂信也、木村光一他訳、白水社、一九九三年一二月、八一-一三四頁
(八)井山弘幸『お笑い進化論』青弓社、二〇〇五年五月、一〇二頁
(九)小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬舎、二〇一四年九月、六二-六三頁
(一〇)ラーメンズ『ラーメンズつくるひと凸』太田出版、二〇〇二年八月、二三頁
(一一)注(八)に同じ、五七-五九頁
(一二)貴志哲雄『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』集英社、二〇〇六年二月、七〇-七七頁

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