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見えない権威性を自覚する。

ひとは知らぬ間に「権威性」を帯びることがあります。というか権威性とはそういうものです。

そもそも「権威」とはなにかを辞書で引いてみると、下のように書かれています。(出典:Weblio 辞書)

① 他を支配し服従させる力。
② ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、そのような人。オーソリティー。

歳をとったり、肩書きや資格を得たり、役割が変わったり、ひとは立場が変わるごとに見えない権威性を帯びてしまいます。それは本人が求めていなくても、外からやってくるものです。

例えば、こんなぼくですが、公的な会議や講師として研修に行くと「先生」と呼ばれます。「先生」と呼ばれるのは正直気持ち悪いですが、相手は悪気なく「先生」と呼ぶのです。

本人は求めていないのに、まわりが勝手に気にして、「先生と呼ばないと失礼だろう」「あのひとは偉いひとだから、言葉遣いに気を付けないと」とか考えて、知らぬ間に権威性を帯びるわけです。

政治家はその典型ではないでしょうか。

地方自治体では、市長が絶対!の空気感が漂っています。「市長がNoと言えばNo」「市長の話は長引くかもしれないけど、市長だから仕方ない」

そんな法律があれば別ですが、そうした権威者への接し方を求めている市長はどのくらいいるのでしょうか。そもそも、市長だって間違うことがありますから、市長の発言だからだれも何も言えないのはおかしい気がします。

そして、まわりの人は「市長」の肩書だけを見て、そうした接し方をしているなら、それはそれでおかしなことです。

こうした日本的な「タテ社会」の構造は、中根千枝先生の名著『タテ社会の人間関係』に描かれています。人間関係において「場」を重視するのか、「資格」を重視するのかを、日本と海外の比較から検討し、日本は「場」つまり「組織・会社・コミュニティ」を重視する傾向があることを述べています。

私たちは「場」を意識するがゆえに、見えない上と下をつくっているのです。もしかすると、その方が都合がよかったのかもしれません。

自分自身が「権威性」を持っていることに自覚しないと、ひとは横柄で大きな態度になってしまいます。自分が言ったことが「絶対」の社会だったら、だれでも王様気分になってしまいます。

そして、自分の態度が横柄で大きなものになっていても、だれもそれを教えてはくれません。だから自分自身が自覚しなければいけません。

だから松下幸之助さんも『素直な心になるために』を書くわけです。どんな大きな肩書を得ても、大成しても、素直であり続けなさいというわけです。

さくねん、スウェーデンに行ったときに、とある大学教授を訪ねました。その事前のメールのやり取りで、Dr.◯◯の敬称をつけてメールをしたら、すかさず「Dr.はやめてくれ」と返事が来ました。

海外在住経験がないので、詳しくはわかりませんが、これがフラットな社会なんだと感じたりもしました。「タテ社会」に日本のなかで、上下をまったくなくすのは難しいかもしれませんが、ともかく自覚的であることが大事だと思うのです。

自分も「先生」と呼ばれたり、「権威性」を帯びているなと感じたら、「ちょっと待って」と言える人間でありたいです。




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