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ここまでわかった犬たちの内なる世界#07補足〜犬のクンクン活動に温度と湿度はどう影響する?

割引あり

☻最終更新 2024/10/08

このコラムでは、温度と湿度が犬の嗅覚にどう影響するかだけでなく、後半では、年齢、性別、去勢状況の影響についてもピックアップします。 終盤では、夏から秋のシーズンにマッチした耳寄り情報を盛り込んでいます。

💁🏼 加筆部分を含め約7000字のコラムです。「じっくり読んでる時間がないよ」という人は、✅と❇️のついたパラグラフだけを読んでください。1分で読めます。



香りの航跡


新緑の茂みの中で、 黄金色の被毛がきらめいている。

ゴールデンレトリーバーのルイは、鼻を草むらに埋めると、においを嗅ぐ。
犬がにおいを嗅ぐのは世界を探るためだ


読者の皆さんは、イヌの嗅覚パフォーマンス(嗅覚の鋭さ)を目の当たりにして心を動かされたことがないでしょうか。
このコラムでは、科学論文として発表された直近の興味深い研究をピックアップしますが、まずは前フリとして、 筆者のかかわったちょっとしたエピソードからお話します。 話の中には、さりげなく?『#07 「嗅ぐ」ことで人の見えないものを見る』で展開した ”イヌの科学”のおさらいを盛り込んでいます。

舞台は、八ヶ岳高原です。では、冒頭の続きから。



ふと頭を頭をもたげたかと思うと、ルイは空気中に漂うにおいを吸い込んだ。
においの分子が鼻腔の奥のおびただしい数の嗅覚細胞に届き、 情報が大脳皮質内の「嗅球」(形が球状だからこう呼ばれる)ですばやく解析されていく。

鼻腔の中の筋肉を緊張させ、空気の流れを中に引き寄せる。 ルイは大量のにおいを鼻に取り入れているようだ。

犬の鼻の穴の中の空気は 、脇のスリットを通して鼻から逆に押し出される。この排出によって生み出された微かな風が、新しい空気の流れを作り出し、新鮮なにおいを取り込むのにひと役買ってくれる。

特殊な撮影法を用いた近年の研究で、犬はどのように「嗅ぐ」のか詳らかにされたという話は、 #07の最後の項『犬の嗅覚の鋭さについての伝統的な説明は、スニッフィング中のにおい物質の移送についての流体力学を見落としている』で動画付きで紹介した。

ルイはふっと息を吐き出し、束の間においの分子をとどめる。
(ふむ、ふむ、このにおいは…)
情報を吟味し味わっているのだ。

自立心が芽生え、ぱっと見「反抗的」な表情を浮かべる8カ月齢のルイ(後方)。 右手前は兄弟犬のロンド

私がかつてフィールドにしていた八ヶ岳の牧草地は、周囲4Km 四方に民家が存在しない。 数百メートル先には鬱蒼とした森が広がっている。

そこには、シカの群れが棲息している。 警戒心の強いかれらのほうから (特に日中は) 近づいてくることはないが、私のような人間でも気配を感じることがある。 夜、車で走れば、ライトに照らされ黄色く輝いた夥しい数のシカの眼を、 闇夜の中に見ることもできる。

夜になると、 シカの群れが森と牧草地の境界線までやってくることがある。おそらく草を食むのが目的なのだ。

船が通ったあとに水面にできる波や泡などの白い航跡をシヤージュ(Sillage)と言うが、フランスのある著名な調香師は、偉大な香水には記憶に残る香りのシヤージュがあると述べている。

もしかすると、ルイの鼻は空中に漂う目に見えないシカの香りの航跡(Sillage)をたどっているのかもしれない。

実際、 彼の伯母さんにあたるミルキーは、シカの頭をくわえて牧場に戻ってきたことがある。 

牧草地と森の境界線でくつろぐミルキー(左) 右はルイの兄弟犬のウルフ(当時3カ月齢)


おそらくミルキーが持ち帰ったシカは猟師に仕留められたむくろだろうという話は、 『毛皮の下はオオカミ」説の終わり方(続編)〜時代遅れのリーダー論に長いお別れを』で既にした。 


温度と湿度は、においにどう影響するかについて仮説を立ててみる


さて、 ここからが本題です。

結論から言います。犬の嗅覚パフォーマンスに大きく影響するとされていた要因についてのこれまでの仮説のいくつかを否定するような研究結果が出ました。 正直、筆者もこれには少し驚いています。

その研究内容を紹介する前に、話をわかりやすくするために、ごく簡単なシチュエーションを設定して、 皆さんと共に考えてみましょう。

同じイヌでも、 8月の平均気温が19°C程度、最高気温でも25°Cに達しない上に、 湿度も低めというさわやかな八ヶ岳高原と 、 同じ8月の平均気温が28〜30°Cにもなる高温多湿のタイのバンコクでは、嗅覚の鋭さの点で違いが生まれるか?

(注)八ヶ岳高原の8月の気温は、ここ5年ほどの間に高温化しており、今年の最高気温は30度超である


つまり温度と湿度は 犬の嗅覚パフォーマンスにどう影響するかということです。
私たち人間(の鼻)に引き寄せてみると、よりイメージしやすいかもしれません。

アツアツのピザと冷めたピザでは、どちらにより強く香りを感じられるか?

こう問われればば、答えは明らかですよね。科学的には、香りのもととなるにおい分子は気体になる性質(揮発性)を持っていて、この揮発性は温度が高くなるほどに高くなると説明できます。

アツアツの料理と比べて冷え切った料理の香りを感じにくいのは、このせいです。

ということは、低温では香りの生成が減少すると仮定し、 寒いと香りを感じにくくなると仮説を立てることができそうです。
極端 に温度が下がれば、”香りの航跡” をとらえることもきっと難しくなるでしょう。

また、温度の上昇は、においの強さを増し、犬の嗅覚パフォーマンスにプラスの影響を与えるかもしれないと仮説を立てることもできそうです。

もちろん湿度も無関係ではありません。空気中に水分が少なくなると、におい分子はどんどん上昇していきます。水分が多いと、におい分子は水分と結びついて留まりやすくなります

この現象については、梅雨時の生乾きのタオルや下着を連想してください。 ありがたくないにおいがガツンと鼻を突いた。皆さんにはそんな経験がないでしょうか。冬よりも夏の方がにおいを強く感じるのは、温度だけでなく湿度も影響しているからです。

犬の追跡行動への影響は過去にも研究されてきたが、「可能性」の域を出ていない!?


実際、研究者たちも仮説にもとづき、イヌの追跡行動に温度と湿度がどのように影響するかについて過去に研究してきました。

『犬の嗅覚:生理学、行動、そして実用化の可能性(Canine Olfaction:Physiology, Behavior, and Possibilities for Practical Applications)』という2021年の論文がこれまでの研究結果を簡潔にまとめています。

ポイントは、次の2つです。

1️⃣湿度の上昇は、においの強さを増し、犬の追跡効率にプラスの影響を与える可能性がある
2️⃣気温の上昇は、犬の嗅覚にマイナスの影響を与える可能性がある

ここで注意しておきたいのは、 あくまでも「可能性 」について言及しているだけで、断定しているわけではないということです。

それぞれについて見ていきましょう。

1️⃣ただし、小雨のときの湿度の上昇は、においの検出にプラスに働くと考えられているが、大雨になると、においを地面の下まで押し下げる可能性があるため、通常はマイナス要因となるといいます。


2️⃣については、暑さによる作業能力の低下が起こったという報告があります。
また、 脱水症状になるリスク があり、酵素の活性と鼻粘膜の流動性が低下する ため悪影響があるとされています。

優れた嗅覚を持っているバセットハウンドのような犬でも、高温になれば探索意欲を失うだろう


嗅覚を下げる食事、 上げる食事


論文を読んでいて面白いと思ったのは、温度湿度とは直接関係ありませんが、 食事が嗅覚に影響を与えるという指摘です。

研究によると、嗅覚を低下させる食事成分(ココナッツオイル)と嗅覚を上昇させる食事成分(コーン油、EPA、DHA、動物性タンパク質など)があるということです。嗅覚パフォーマンスには、大量のエネルギーを必要とするので食事が大切だというわけです。

EPA、DHA は、イワシやサンマなど青魚に多く含まれている脂肪酸です。 健康情報としてもよく取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょう。血液をサラサラにして、老化を抑え、神経細胞の働きを高める効果があるという研究結果も報告されています。 

以上余談ながら、犬と暮らす皆さんの知識として押さえておいたほうがいいかなと思ったので紹介しました。

家庭犬434頭の嗅覚パフォーマンスを検証



今回の新しい研究は、ハンガリーのエトヴェシュ・ロラーンド大学の研究チームによって行なわれました。 アダム・ミクロシらの研究チームは、興味深い実験をよくやるのでこのコラムでも度々紹介していますが、今回も面白い結果が出ています。

テストを行なうにあたり、研究チームにはある問題意識がありました。
本文の一部を引きますね(論文の翻訳にあたり細部を一部省略しています)。

イヌの嗅覚に関する研究は急速に進んでいます。しかし、科学的結果に基づいて一般化することは困難です。 なぜなら、これまでの研究は特別に訓練された少数の イヌを対象に行なわれたものだからです。

研究チームは、屋外における温度・湿度が、訓練を受けていない家庭犬の嗅覚パフォーマンスに与える影響について調査しました。

調査にあたっては、上記の問題意識にそって、サンプル数を広げ、年齢や性差などで偏りが出ないようにバランスにも配慮しました。

雑種を含めた様々な種類の家庭犬434頭  (生後 6 か月以上) を対象に食べ物の入った器を用いてテストが行なわれました。

結果から先にご紹介しましょう。

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