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ミズ・ミステリオーザ -ふくらはぎの刻印- プロローグ

白壁の屋敷で暮らすのはミステリオーザ婦人、白い犬のホニョーラ、カラスに変身する黒い犬のコッコーラ、アメショ猫アブラダモッチ。新進気鋭の遺伝生物学者、翠が探しているあのひとは、実はこのお屋敷で倒れていて。翠のふくらはぎのアザにも、実はあのひとが関わっていて。それは国家的陰謀ー止められるのか。


プロローグ・ポチ、悪い子だ



 エメラルドグリーンのワンピースの裾が、息が弾むのに合わせて揺れる。地下鉄の出口、軽快に階段を駆けあがろうとしたけれど、一昨日、退院したばかりの身には少々無理があったようだ。一旦止まって、日の光が射しこんでくる方を見上げると、春霞のかかった空を背景に高層ビルが屹立している。
 階段を上りきった斜め向かいが、お目当てのオープンテラスカフェだ。若竹翠わかたけみどりは、日当たりの良さそうな席を見つけて荷物を置いた。
 倒れて救急車で運ばれ、二週間ばかり入院した。しばらくの間意識がなくて、何が起こったのだろうと思ったら、過労だろうと言うことだった。いささか働きすぎたのかもしれない。
 いやいや大変なのよ女性が男性に伍していくってね。ついつい、周りの二倍、三倍と頑張らねばと思ってしまうの。
 まあ、三十代後半にして稲木大学いなぎだいがく准教授というポジションにあるわけだし、現職大統領にお目通りするという栄誉にもありついたのだから、頑張った甲斐はあったというものだろう。
 新進気鋭の遺伝生物学者である彼女は、自身のホームページに「ちょっと楽しい生物の秘密」とタイトルをつけ、自作のイラストを添えて発信している。それが人気を博し「大統領との愉快な対話」と称した官邸インタビュー企画に招かれたのだ。
 その席で倒れてしまったのは失態だった。
 とは言え、大統領からお見舞いの花束は貰うわ、退院祝いの電話はかかってくるわ。
 災い転じて福となす。これからも頑張ろうっと。来週からは仕事に戻ろう。解析結果もうまくまとまりそうだし、きっといい論文が書ける。楽しみ!
 ほんのりウェーブのかかった長い髪を一振りするとカウンターへ向かう。
紅の善くれないのぜんを、ホットで」
 ここは国民的チェーン店、善々珈琲ぜんぜんコーヒーのカフェ。高名な世襲政治家である高梨善造たかなしぜんぞうの珈琲好きが高じて誕生した。自家農園でオリジナル豆の栽培を始めたことがきっかけだったという。善造が大統領となった今では、一人娘が社長をつとめている。
 今回のインタビュー特典として、翠はクーポンをもらった。善々珈琲全店で五年間有効の五割引。なんたる太っ腹。端末を開くと、和のテイストを前面に押し出すような『善』のロゴがついたクーポンが表示され、大統領のキャラクターデザインが笑顔で踊る。決済するとピッという電子音に続いてスズメのさえずりが聞こえてきた。店外へ目をやると、荷物を置いたあたりに集まってきている。暖かい日和をスズメも楽しんでいるのだろう。いい休日になりそうだ。
 カップののった盆を手に席へ戻り、最初の一口を含む。ちょうどいい熱さと共に鼻孔を抜けていく香り。うっとりと目を閉じていると端末が振動する。官邸からだ。
 文面を一読した翠の顔に笑みがこぼれる。
『仔犬が産まれたから、一匹どうですか、と大統領がおっしゃっています』
 インタビューの間ずっと大統領の足元にいた犬の子供だろう。ポチ、っていったよね。私、気に入られちゃったみたい、大統領に。
 ざわ、ざわざわ。風も無いのに音を立てて葉が揺れた。スズメが飛んだり、止まったりを繰り返しているのだ。今度は突風が枝をしならせて、そして翠のワンピースの裾までも持ち上げた。思わず抑えた、ふくらはぎのそこには。
 あれ、何?
 うっすらと変な形のアザができている。まるで文字のようだ。首を傾けてみると「NSP」と読めるような。
『ポチ、悪い子だ、何て悪い子だ』
 突然、大統領の声が頭の中で響く。ええっと。ポチ、何をしたんだったっけ。
 テーブルの端でスズメが数羽、翠の顔の動きに合わせてピョコピョコと動いている。よく見ようと身を乗り出すと、さっと散って木の枝へ止まる。
 枝へと視線を遣った翠は思わず立ちあがる。
 鼓動が早くなっていく。全部で二十羽くらいもいるだろうか、スズメたちの眼球は、見慣れた真っ黒ではなくて、縁が黒く中が透きとおっていたのだ、そう、まるでカメラのレンズのように。

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ヘッダー画:R. Bonyari