長夜の長兵衛
【本稿は、2021年8月より不定期連載していた短編を推敲、加筆して、note創作大賞2022への応募作品としたものです】
初春 椿
蕎麦屋には、ぐるりに緑の生垣があった。
咲き始めたばかりの紅い椿。長兵衛は暖簾をくぐる。
この町には寄席の小屋があるという。大家の金兵衛が、弟子の銀兵衛ばかりか、長兵衛まで招いてくれた。はじめての落語に心が跳ね、跳ねる。
わたしと銀兵衛は、別の町でのお勤めがあるからね。だからわたしたちが着くまで長兵衛、お前さんは一足先に宿でのんびりして、そうだ、宿の辻を三つばかり行ったところに美味い蕎麦屋があるから、楽しんでおいで。金兵衛はそう言って笑った。
宿は三人の相部屋である。長兵衛は下座とおぼしき座布団の上にちょいと座り、寝転び、挙句の果てにはでんぐり返し。立ち上がると窓へ寄り、越えてきた山肌を眺め。そのようなことを繰り返したのち、蕎麦屋を訪れたのであった。
盛られた蕎麦は色が濃く黒く、よく香った。辛味大根と、青葱の刻んだのをのせ、少し甘めのつゆにつけて啜る。
美味い。長兵衛は独りごちた。
蕎麦湯も堪能して、さて。
長兵衛の顔色が真白になったのは、客の入れ替わりで風が吹き込んだため、ではなかった。
ない。
右の懐、左、からだの全てを触ってみるが、どこにも見当たらぬ。
心の臓がとくとくいうのが響きわたる。深く息を吸い、もう一度、右、左、ない、やはり、ない。でんぐり返しをした拍子に、宿の畳にこぼれ落ちたに相違なかった。
馴染みの蕎麦屋であれば、なりゆきを説明して、銭入れを取りに戻れば済む。長兵衛さん以外とそそっかしいね、と店主に笑われるだけのことである。
知らぬ町、知らぬ店、わしの言うことに耳を傾けてくれるだろうか。思いを巡らしながら、無意識のうちに右、左、と触り続けているものだから、店の者が怪訝な顔でこちらを見る。
お客さん、もし、お客さん。
胸の奥のとくとくが、一段大きく頭の中でぐわんと鳴る。
あの、誠に済まんことですが。
言い終わる前に、見知らぬ姐さんがつと、長兵衛の向かいに腰掛けた。
あの時の兄さんじゃないかね、いやどうしていなさるかと思っていたよ。
長兵衛穴の空くほどに、艶やかな顔を見るが思い出せぬ。
あんたもう食べちまったのかい。若いんだしさ、付き合ってもう一杯おあがりよ、ね、あったかいやつでいいかい。愛嬌のある優しげな目が、長兵衛に落ち着けというておる。
あの時は本当に世話になったね。また逢えたのは、お釈迦様のお導きってやつだろうね。ここは、あたしに奢らせておくれよ、あんたには散々世話になったんだから。ああ、いい食べっぷりだこと。
姐さんはよく通る声で、豆でも炒るようにカラカラと笑いながら御銭を置くと、じゃあまたね、と通りへ消えていった。
狐につままれたまま長兵衛が宿に戻ると、金兵衛と銀兵衛が着いていた。茶を淹れ、金兵衛の差し入れをつまむ。ことの顛末を聞かされた二人も、首を捻る。そりゃお前、もしや本物のお釈迦様が助けてくださったのかもしれないね。それにしても、よく食うね長兵衛、そばを二杯たいらげてその上、三つも饅頭が入るのかい。
笑っているうちに、そろそろいい時間である。
前の方の席は、ご贔屓さんたちがお座りだからと金兵衛が後ろへ向かうのに、銀兵衛と長兵衛が続く。待つ間の、人のざわめき。噺家さんが現れた瞬間の胸の高鳴り。ぱらり、めくり。何もかもが長兵衛を包んで連れていく。
そして、真打が座ると否が応でも熱気が増す。
おや、と長兵衛は思う。
そのひとが噺をはじめると、誰もがあっという間に耳を奪われる。
この声。
先程の姐さんではないか。
小屋中のとくとくが、姐さんの拍子に合ってゆく。そのひとが右を見れば、たれもがそちらをみる。眉がぴくりとしただけで、はっとする。真打の醸し出す世界に笑って泣いて笑って小屋が軋む。材木までが笑っておる。
お開きとなり我に返った長兵衛、お釈迦様がお釈迦様がと繰り返す。宥めすかして、ことを合点した金兵衛は、驚きを通り越して青くなった。三人で団子のようにもつれながら、控えの間の入り口が見えるところまでは辿り着いたものの、それから先は一歩も通すわけにはゆかぬ、という。そこをなんとか。
押し問答を繰り返すうち、中から一人の男が現れた。涼やかな目元、低く落ち着きのある声。お引き合わせすることは叶いませんが、私でよければ話をお伺いしましょう。長兵衛は頭を地にすりつけんばかりに詫び、礼を述べ、銭を受け取ってくだされ、と頼む。
長兵衛さんとやら。
あなたは、こちらをお返ししたいと仰る。お気持ち、ありがたや。けれどもそれはもはや、本人に戻すものでは御座いません。お若い方、あなたがいつかそういう立場になられた暁に、どなたかにお渡しくだされば良い。そのようにして、めぐり巡ってゆくのです。あれも、受けてきた色んなご恩をやっと、お返しできるようになったので御座いましょう。
穏やかに微笑むこの方、旦那さんなのだと長兵衛は悟る。
こうやってお見えになったのも何かのご縁ですからと、手ぬぐいをくだされた。真打の名前と、椿の紋様が染め抜かれている。
あ、これは。
そうなのです。あの蕎麦屋は、あれが若い頃から大層贔屓にしてくださいましてね、生垣に椿までしつらえて。
なあ長兵衛、銀兵衛よ。
おとこもおんなも老いも若いも無いものだよ。
芸として、どこまで極めたか。
人として、どれだけ生きてきたか。
帰りの道すがら、山道の椿もまた、ぽつぽつと咲き始めていた。
初夏 金魚
丁寧に鉢から金魚を掬い、長兵衛は水換えに取り掛かる。
大家の金兵衛が慈しんでおる赤と黒の二匹。ちょいとお伊勢さんへ参ってくるからと託されたのである。
びいどろに光が跳ねる。さすが金兵衛さん良い物を持っておいでだと長兵衛は独りごちる。
稼ぎのほどは知らぬが、かような鉢に心を遊ばせる懐があるのであろう。
金兵衛の臍は盥のようで。
そこに二匹の金魚を泳がせてみせる、ほほう。たれもが、目を丸くして三嘆する。鉢の金魚に銭を出すものはおらぬが、臍に泳ぐとなると途端に値打ちである。
弟子がひとりある。
長兵衛のはす向かいの住人で、銀兵衛という。
金兵衛は男の造りを眺めると、おぬしの取り柄は鼻であると一匹の蟋蟀をやった。
それは銀兵衛の鼻の穴に住まい、客が来ると頭だけをのぞかせ鳴いてみせるのであった。
噂が噂を呼び、金兵衛銀兵衛詣でに訪れるものがひきも切らぬ。子供の駄賃ほどの銭しか取らぬが、塵も積もればなんとやら。
蟋蟀は暖かい鼻の中で長生きをし冬を迎えるに至った。ところがある朝、雨戸を開けた銀兵衛は冷気にあてられ、つい、
へっくしょい。
一面は雪。落下した蟋蟀は頓死したのであった。
もとより、越冬はせぬ生きものであるから、おぬしの所為ではないと言い聞かせるも、銀兵衛の嘆き悲しみようは尋常でなかった。異国の言葉でlossというものであろう。
金魚は十年生きるであろうか。金兵衛のためにも元気でいておくれと、磨いたびいどろに二匹を放す。
わしにもなんぞ、取り柄があるといいのう。
長兵衛は臍を覗き込んでみた。向こうが透けて見えたような気がした。
初秋 朝顔
長兵衛が寝坊助なのは今に始まったことではない。
異国の言葉でearly birdの反対がnight owlだとか。不苦労。かように縁起が良いのであれば、ことさらに早起きすることはなかろうて。
ところがそんな長兵衛が、ここ一週間ほど、いそいそと朝起きに勤しんでおる。
朝顔を愛でているのである。
しかと、朝顔の傍を通り過ぎる娘さんに見惚れている。
もとはといえば、独り身の長兵衛の暮らしが殺風景なのを見かね、大家の金兵衛が、種を呉れたのであった。
長兵衛の住まいはこざっぱりと片付いている。しかしながら、色というものがない。
そこに、朝顔が咲いた。
さすがの寝坊助も目が覚めるほどの紫。
娘さんが通りかかって、あら綺麗と話しかけたものだから、ひとたまりもない。紅をさしてもいないのに、ぷっくりと瑞々しい唇よ。
長兵衛の朝顔は律儀に一輪ずつ開く。
咲き続ければ、毎朝、にっこりしてもらえる。水遣りの手に力もこもろうというものである。
その朝、娘さんは最早、長兵衛の朝顔など目に留めぬ。いわんや長兵衛の顔をや。
隣には恰幅の良い若旦那。お付きの男たちが大切そうに鉢を抱えている。
紫、紅、白、とりどりの朝顔。
二人は揃いの浴衣を粋に着こなしている。長兵衛の一張羅すら足元にも及ばない上物であることなど一目瞭然。
ああ、成る程。
長兵衛は独りごちた。
わしの朝顔は一気にぱっとは咲かぬ。
そのような暮らしは、向いておらぬ。
毎朝、一つずつ。
そのように、地道に金を貯めるのがよかろう。
長兵衛は奥へ引っ込んだ。
しばらくすると、めざしの焼ける香りが漂ってきた。
初冬 敷松葉
辻を山の方へ向かうと地蔵さんがおりなさる。
よう似た体つきをした金兵衛が、まめまめしく周りを掃き清めておる。
長兵衛は、たまさか通りかかったのであるが、大家の姿にいたく感じ入り手伝いを申し出た。
仕上げに布で地蔵さんの土埃を払い終えると、どちらからともなく満足そうに頷きあった。
質素だが品の良い小ぢんまりとした一軒家に戻ると、金兵衛は茶を淹れてくれた。少し冷えた日でもあり、大層旨い番茶であった。
仏壇の御料さんには饅頭が供えられている。
東に向かうように神棚も設えてある。
手入れの行き届いた木の艶がやわらかい。
矢が二本。はて、破魔矢ではないようだ。
弓術で使うものさね、と金兵衛が立ち上がって手に取り、見せてくれる。甲矢と乙矢といってこれで一組、ほら、羽の向きが違うだろう。
間近で矢を眺めるのは初めてである。
弓も拝見してみたいのですが。
大家は呟くように答えた。もう無い、とうの昔に、止めてしもうた。
若い頃、橋向こうの安兵衛と、そこの角の久兵衛と三人でな、お社さんに射を奉納したことがあるのだよ。
金兵衛は、ぽつぽつと語りはじめた。
豊穣祭に奉納することを許されるのは、毎年三人きりという誉れであった。
こう見えて、儂はなかなかに腕の立つ射手であったのだよ。若いもんの面倒を見るようなこともいたしておった。
ふふふ。
好いた女子がおっての。道場主の娘御で、何くれと儂らの世話を焼いてくれた。うむ、今のお方とは縁もゆかりもない、昔の主様の娘御だ。どこぞの遠い町へ嫁いだと聞いておる。まあその時分には、金兵衛さんとお似合いじゃと囃し立てられるようなこともあってな。あちらも、満更でもないようであった。
あれも、もう妬いたりせぬであろうよ。仏壇をちらり見て、はにかむように笑う。
ところが、隣町の若い衆が何人か入門した頃から雲行きが怪しくなった。
吉左、というのが娘に惚れたようであった。
惚れた腫れたは仕様のないこと。しかし吉左というのは、あまり良い噂の男ではなかった。有り体に言えば、どうも女にだらしない。また、人の好き嫌いにあからさまなところがあり、好かぬとなると陰口を触れ回る按配だった。
次第に吉左と娘は、稽古中でもおおっぴらに戯れるようになり。
いやはや。
不穏な空気を抱えつつも、秋が来て奉納はつつがなく終わり、儂らはほっと胸を撫で下ろした。
そして、来年の射手三名も内々に決まった。吉左の名もそこにあった。あの者は大して稽古をせぬのに、腕前はなかなか達者であったのだ。
娘御の意向があったのかどうかは知らぬ。
何も口出ししまいと思った。これからはおのれの弓術に専念しようと。
ある日呼ばれて行くと、道場主と師範が揃っておった。
金兵衛よ。お主、今年も奉納してくれぬか。
儂はたまげて腰を抜かしそうになった。今まで、二年続けて射た者などおりませぬ。
あとの二人が、吉左と一緒ならば降りると言うのだ。かといって、吉左を降ろして他の者を選べば、何が起こるか知れぬ。
吉左も皆も、納得させられるのは金兵衛、お主しかおらぬのだ。頼む。
因果応報。
頭に浮かんだのはそれであった。
あやつは射手になりたくてたまらぬのに、なれぬ。儂は何も手を下しておらぬ、弓術の稽古に好き嫌いを持ち込むのは違うと思うて、心を押し殺して公平であろうと努めておった。
神仏は見ておいでであった、そして罰しなさった、儂に褒美をくだされた。
儂は淡々と二度目の奉納をした。
したのだけれども。
気づいてしまった。
どれだけ吉左を疎ましいと思っておったか。
いい気味だと嘲笑ったのではないか。
娘は吉左を選んだが、神仏が選んだのはこの儂だと。
鬼が棲んでおる。儂の中には恐ろしい物の怪が。
指を痛めて角見が効かぬようになった、と皆には話した。ああ、弓を握るに親指から力の伝わるが、肝心なのだよ。
二人の男は、黙って湯呑みを持ち上げた。
敷松葉が風に歩く。
茶柱が立っておりまする、と長兵衛は呟いた。
〈了〉