こびとと月
夕飯前に散歩に出かけようとするともう暗くなっている。日の沈むのが早くなった。ゆっくりと川べりを歩く。
するとお犬が言うのである、ほら、あの月をごらんなさい。今日は上弦の月の前日、西南の空に浮かぶ月。一人でぶらつくだけなら、月をまじまじと見る習慣はつかなかったかもしれない。
この白いお犬になぜここまで心奪われているのかわからない。ほかの仔犬を見てもさざなみは立たなかった。けれども十一年前のその日、会った瞬間にこれが探していた相棒だとわかった。
わたしの手を引いてそこへいざなったものがある。白いお犬の周りで、ここだよと飛び跳ねていたものがある。
こびと。
noteで小説を書くようになって、気がついたことがある。わたしは「間」に強く惹かれ、現実とあわいを行ったり来たりすることを好む。
読む側にまわっても、そこに引き寄せられる。どれだけ現実を描いていても、あわいに触ったことのある作者の書いたものを嗅ぎ分けて向かっている、ような気がする。
あわいとは何だろうか。
現実とあわいの境は、連続した色の階調のようになっているようでもあり、はたまた扉一枚でピシャリと隔てられているようでもあり。
わたしには言語化できない。生と死のはざま、のごとくに簡単ではない。死にそうな目に遭ったらわかる、ということでもない。
ただ、こびとはあわいにいる、と思う。
自分の、あるいは人の力ではどうにもできないことというものがある。いっそこびとのせい、としてはどうかと考えこむ。
だからこびとというのは、決して愛らしくて善意に満ちたものだけではない。間抜けで無力で、もしや迷惑な存在かもしれないし、いっそ奇怪で醜悪で邪悪の権化だったりもする。気を配っておいた方が良い、と思う。
そのあたりのことは、わたしよりもお犬やベランダの植物たちの方がずっと良くわかっているような気がする。
月が満ち欠けする。太陽と地球との位置関係によるのだ、とわかってなお、不思議な思いに包まれる。こびとたちが、月のまわりでカーテンを開け閉めしているのが見えてくる。かぐや姫のお屋敷へロケットを放つなど無粋である。
今年の十五夜(中秋の名月)は九月十日だった。十月八日が十三夜。お月見は両日ともいたしましょう、片見月はダメよ、というのがこびとからの伝言である。
今年もよろしくお願いいたします。
お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。