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極私的愛唱歌

昭和47年は昭和歌謡の絶頂である

 『昭和の作曲家 20人の100曲』(塩澤実信)という書物がある。古賀政男から都倉俊一(NHKの朝ドラで話題となった古関裕而も登場する)まで、昭和の時代を彩った数々のヒット曲を作り出した作曲家たちのバックグラウンドと代表曲を紹介した、興味深い資料である。

 自分の幼少期を振り返ってみると、私の幼い心身を深いところで揺り動かし、自分でも自覚しきれていない影響や拘束を私にもたらしているのは、アニメと音楽であったと思う。好みの音楽の触れると、「ああ、この感じいいよなあ」と何とも言えない恍惚感が無意識の領域に浸透してゆくのを感じたものである。それは一種の「感情教育」というものであり、そして時代や状況との取りかえることのできない触れ合いというものであった。あえて言えば、音楽との出会いは歴史的体験であった。私の感性は音楽を通して歴史的に形成されている。

 『昭和の作曲家 20人の100曲』に登場する作曲家たちは、古賀政男が1904年生まれで、都倉俊一が1948年生まれで、40年ほどのスパンがあるし、彼らの経歴もさまざまだが、まぎれもなく「昭和」という時代の歴史を感じさせる。この感じは、「平成」にも「令和」にはないものであり、「平成」「令和」とは異なる無機質でない何かである。「戦争を体験した人間」と「戦争を知らない子供たち」の間にあるような決定的な切断線のようなものが、あきらかにある時代とある時代以降とでは、あるよなあ、と感じることがある。いわゆる「懐メロ」を聞いていると、ことさらそれを強く感じる。つまらない語呂合わせで申し訳ないが、懐メロに大衆の体臭を感じとって、そこに原風景のようなものが思い出され、自分の土台はこれによって育まれたのだと、はっきりと意識する。

 繰り返し言えば、私にとって、音楽は、最初の文化体験であったが、自分の文化規範となるものはこれであり、自分の文化はこの方向で展開するのだと、子供心に自覚したのは昭和47年の歌謡シーンであった。子供の私には、もちろんアニメや漫画もあったけれど、それ以上に音楽を通して文化のイメージが形成され、感性のベーシックな型が出来上がった。私にとっての文化は、昭和47年の数々の名曲であったし、じっさい個人的にはこの年の歌謡曲が昭和歌謡の頂点であった。いろいろな歌のタイトルが思い浮かぶが、10曲に絞り込んでみよう。

昭和47年の偉大なる10曲(プラスアルファ)

1 「出発の歌」(六文銭)
作曲は小室等。ヴォーカルは上條恒彦。作詞は及川恒平。世界歌謡祭出場間際までぎりぎりのところで、でっちあげのかたちで作られたが、当事者の予想を覆してグランプリを受賞。昭和46年12月のリリースだが、実質的には昭和47年の流行歌。この流れでテレビドラマ『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」も発表された。それにしてもこのころの曲は媚びたような安っぽさが無いとつくづく思う。人間や志というものがまだ信じられていた。

2 「太陽がくれた季節」(青い三角定規)
 テレビ・ドラマ『飛び出せ青春』の主題歌。「Let’s begin」というセリフが懐かしい。石橋正次、剛達人、穂積ぺぺがとぼけた不良を演じていましたねえ。作曲はいずみたくで、この人は良質の通俗ドラマの脚本家みたいなイメージがあって、私の中では「まあいんじゃない」というような評価であったが、「この人は天才だ」とはっきりと思ったのは『モーレツア太郎』の主題歌が、いずみたくであることを知った時であった。

3 「あの鐘を鳴らすのはあなた」(和田アキ子)
 昭和歌謡の大傑作と言って過言ではない。たんなる歌謡曲の枠を突き抜けて、ゴスペルの域に達している。個人的にはグラミー賞最優秀賞をあげてもいいくらい。先にこの時代の曲に自分の文化イメージは決定されたと書いたが、その最右翼である。

4 「そして、神戸」(内山田洋とクールファイブ)
 作詞(千家和也)といい、作曲(浜圭介)といい、編曲(森岡賢一郎)といい、ヴォーカル(前川清)といい、そのどれもが一級品である。「船の灯りうつす/濁り水の中に/靴を投げ落とす」という感傷を排したアクションで、悲しみを描き出してしまう歌詞に「すんげえー」と子供心に驚いた。ギターのひずんだ音の泣き具合も絶品で、私はこれを「エレキ演歌」と呼んでいる。

5 「恋唄」(内山田洋とクールファイブ)
 これもクールファイブ・ナンバーだが、彼らはこの年に世紀の名曲を2つも発表してしまった。前川清は、現在もなおポテンシャルの高い歌い手だが、この頃のヴォーカルは狼みたいな感じがしていて、ことによったら、全共闘運動の闘士にでもなっていたんじゃないかと思うところもある。

6 「北国行きで」(朱里エイコ)
 鈴木邦彦の作曲。もう一人の「邦彦」に村井邦彦がいるが、シティポップの源流は彼らにあるのではないか。二人とも慶応義塾大学出身であるし、日本のシティミュージックの伝統は慶応派閥が強いというイメージがある。他にも山下毅雄とか小林亜星とかカシオペアとか松本隆や杉真理とかもそうである。一方の早稲田は中村八大は別格として、爆風スランプとか飛行船とか地方出身者のイメージが強い。演劇も慶応の劇団四季に対して早稲田は別役実とかあんな感じである。

7 「虹と雪のバラード」(トワエモア)
 村井邦彦の作曲した有名曲が1972年の札幌五輪テーマ曲の「虹と雪のバラード」である。札幌は地方都市のひとつだが、あまり土着性を感じさせないというか、非常に抽象的な雰囲気がある。その雰囲気によく似合っている曲だと思う。

8 「どうにもとまらない」(山本リンダ)
 ラテン歌謡の金字塔。作詞は阿久悠。作曲は都倉俊一。阿久悠は前年も「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)という名曲を発表しており、阿久悠は子供の私にとって文化的なアイコンであった。この年のドキュメンタリーアニメ『ミュンヘンへの道』の作詞家であることも大きい。この頃の山本リンダはサイコーである。野生の女豹のようである。

9 「少女」(五輪真弓)
 「恋人よ」のイメージの強い五輪だが、キャロル・キングを強く意識していたこの頃の五輪のほうが、私はずっと好きである。五輪にはNHKドラマ(『僕たちの失敗』)の主題歌だった「落日のテーマ」という曲もあるのだが、こちらも素晴らしい楽曲である。マイナーな存在の曲であることがとても残念である。

10 「待っている女」(五木ひろし)
 当時としてはとてもアヴァンギャルドではなかったか。今聞いても新鮮で、どういう系譜なのか、よくわからない。突然変異みたいな曲なのだが、こういう曲を生み出してしまうところに昭和47年の歌謡シーンの土壌の豊かさが感じられる。

11 「許されない愛」(沢田研二)
 これまた昭和歌謡の傑作である。沢田研二かっこよすぎるだろう。ほのかに心をゆすぶってくるこの苦さと重さは、BTSには表現できないだろう。

12 「純潔」(南沙織)
 「純潔」というタイトルがベタベタにスィートなアイドルソングを予想させがちだが、それを裏切ってなかなかハードな曲調で攻めてくる。このような曲が出てくるこの時代は懐が深い。

13 「たどりついたらいつも雨降り」(モップス)
 作詞作曲は吉田拓郎。このころの吉田拓郎は神がかっていた。いわゆるニューミュージックの表現はレベルが異様に高いように感じる。私が70年代前半にこだわるのもこの時のインパクトによるところが大きい。編曲は井上陽水とコンビを組むことも多かった星勝。アレンジの大勝利。

14 「喝采」(ちあきなおみ)
 これまたとんでもない傑作である。歌謡曲の範疇を突き破っているよ。作曲の中村泰士によれば、「蘇州夜曲」と「アメイジング・グレイス」がイメージにあったという。つくづく実感するのだが、この時代には「正しい重さ」というものが、きちんと存在していた。

陰影と深さ

 中途半端な数ながらもなんとか14曲に絞り込んでみたとはいえ、かなりの数の曲が落とされた。こうして振り返ってみると、文化の質が違うし、クオリティもかなり高かったと思う。何よりも陰影と深さがきちんとあることが、自分の肌には非常にマッチしていた。だから80年代の文化シーンのスカスカな感じが、私には非常にキツかった。恒常的にハラスメントを受けている感じであった(文化的ハラスメント?)。

 そのように感性が形成されているがゆえ、どうもライトノベル的な文化がよくわからない。歴史的背景がまるで違ってしまっているようなのだ。想像するに肉の火照りや臭みや肉弾戦のような熱さが希薄なのではあるまいか。昭和歌謡は肉体で世界と触れ合っているが、それ以降は神経で世界と交感している感じなのだ。戦いも、だから、SNSのような神経戦のようなものになっている。抽象。記号。イメージ。神経的情報処理。知的操作。そのようなワードが思い浮かぶ。昭和47年の野暮ったい熱さと重さがとても懐かしい。


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