見出し画像

社会学の身体感覚とその夢

 新書としては破格とも言える600ページを超えるボリュームである。『社会学史』というタイトルを持つ大澤真幸の著書は、タイトル通り、「社会学の歴史を全体として論じた本」を実現すべく書かれ、「『社会学』という学問領域の下に包摂されてきた重要な事項や人物」を網羅し、「バランスを失することなく、すべてを視野に収めた」、テキストの王道を行くテキストとして仕上がっている。「意欲ある人に直接語ることを通じて執筆したい」という著者の希望に沿い、講談社の4人の社員を前にして、講談社の会議室で実際に行われた講義を基にして書かれた優れた啓蒙書である。啓蒙書だからといって、無味乾燥な教科書を思い浮かべてはいけない。本書が書かれた背景には、著者の実体験を通してかたちづくられた次のような正しい教養観というものがある。

 学者と学説を時系列にそって羅列し、解説するだけの本は退屈で、通読できない。だが、できあがった概念をただ紹介するのではなく、その概念を生み出さざるをえなかった必然性に立ち返るようにして説明するならば、知は、その本来の楽しさをとりもどす。

『社会学史』

 学問を生き生きとさせるもの、あるいは学問に血の通った倫理を通わせるものとは、「その概念を生み出さざるをえなかった必然性」である。大澤は、その必然の現場に立ち会うようにしてそれぞれの社会学のボディを素描してゆく。たとえば、17世紀のホッブズは、秩序が崩壊し、むき出しとなった「万人の万人に対する闘争」状態をいかに克服するのかという切実な問いとともに社会契約論(『リヴァイアサン』)を構想した。あるいは、社会的な規範の拘束力が弱まった19世紀のフランス社会において、自由が行き渡っているにもかかわらず自殺率が高まる現象に生々しい困惑を覚えながら、その解明に向かったデュルケーム。彼らは、それぞれの実存を揺さぶられる体験によって、自分たちを拘束する世界(社会)の不条理な力と仕組みを感受し、社会の不思議さを解こうと試みた。その姿は、世界の不条理を神に問いかける真摯な宗教家の姿に似ている。じっさいグロティウスやパスカルの思想は神の法(自然法)を前提にしている。

 けれども近代以降の時代においては、神による解決は不可能である。17世紀のニュートンの登場は歴史に「科学的思考」をもたらし、世界の不可解なありようを、神の意図(宗教的意味)ではなく、物質の仕組みとからくりを通して、紐解こうとする視線を人間に提供した。マルクスの『資本論』を「近代社会をトータルに理解するための一つのモデル」ととらえる大澤は、『資本論』の方法に物理学の方法を読み取っている。

 ニュートンの世界観では、物質世界を考える時に、質点というものを導入します。物質の一番エッセンシャルな部分は、質量と速度です。しかも力学的な運動に関しては、物質の重心だけを考えればいいので、結局、点で考える。

 つまり、多様な物質を、速度と質量以外は持たない、量的な規定にまで抽象化し、それらの間にあるさまざまな質的な差異を還元するわけです。そういう世界観が、科学革命を可能にして、近代的な新しい世界観へのブレイクスルーをつくった。

 さまざまな使用価値をもつ商品をひとしなみに抽象化して、同じ交換価値の量的な規定によって比較し、等価関係を打ち立てていく。これは、先ほどの古典力学のやり方と同じです。さまざまな物に匂いがあったり色や形や質感があったりするわけですが、しかし、それらを力学的な対象として扱い、その運動を計算するときには、質量と速度といった量だけに還元する。両者は同じタイプの操作になっているのです。

『社会学史』

 「質的な差異」が「量」だけに還元される市場社会=社会のダイナミズムが、マルクスふうの古典力学によって解明される。1個のリンゴと1個のミカンは100円という貨幣によって「色や形や質感」といったローカル性を消されて量的に等置され、グローバルな抽象空間を移動する自由を手に入れる。マルクスは貨幣を「ラディカルな平等主義者」と呼んだが、まことに言い得て妙で、貨幣の抽象性は国境という質的な差異(滑らかな経済的運動を阻害する障壁)を軽々と超えてゆく。そしてまた、貨幣は交換の手段(媒介)であると同時に、価値体系を支える不可視の中心のような役割をも果たす。見えない神のような存在として人間の価値判断や行動を操作する力を持つ。人間の意識を外側から規制し、それを動かす無意識のようなメカニズムを、マルクスは市場(市民社会)の分析を通して見出していた。「マルクスがここで展開している価値形態論は、こうした無意識の論理なのです」。

 無意識と言えば、フロイトだが、そして『社会学史』の第二章は、フロイトの記述から始まるのだが、フロイトはそうとは意図せずに、意識と無意識の関係を個人と社会の関係としてとらえていた。フロイト自身は意識と無意識の関係を文化と自然の関係としてとらえていただろうが、フロイトによるこの図式は個人とシステムの(権力)関係を描くものとして、フロイト以降の思想家たちに引き継がれていった。

 たとえば、フロイトの正統的後継者を自認するジャック・ラカンは、権力機構としての無意識を精緻に分析してみせた。乳幼児は他者たちの語らいの場へと投げ出され、他者の言葉に自身の無意識を染め上げられ、無意識をそれらの言葉によって横領されている。ラカンの言う「無意識は言語的に構造化されている」という言葉は、人間が社会的関係の網目の中で分節化され、社会の欲望のしもべとして振る舞わざるを得ない存在であることを意味している。個人の世界を見る視線は、社会の世界観とほぼ重なる。天皇を前にした時に日本人がとる態度はほぼ一定のパターンをなぞることになるが、それはほとんど無意識のレベルで決定されている(もちろん私もそれを免れない)。だから、自分自身の無意識を探っていくならば最終的には社会の欲望と向き合うことになるだろう。「私自身」の発想の元を抉ることは、「社会」の根拠を抉ることだ。「社会学」という学問は、「私」という人間の由来を解剖する批評的ツールである。大澤は、本書の「序」において、社会学を「近代社会の自己意識の一つの表現」と定義している。

 自分は何であるか、自分はどこへ向かっているのか、自分はどこから来たのか。それが正しい認識かどうかはわかりませんが、近代社会とはこういう自己認識をもつ社会です。

『社会学史』

 であるがゆえに、社会学の視線は、正確無比な客観的記述を行使することになるが、それが徹底的に研ぎ澄まされた場合には、社会学はあらゆるイデオロギー、意味、物語を容赦なく解体するまでに至るだろう。大澤が社会学理論の二つの頂点(ツインピークス)と呼ぶところのニコラス・ルーマンとミシェル・フーコーは、そのような試みを実践したのだった。この二人を本書のトリとして、大澤が登場させたのは、彼らの仕事の中に、大澤の大きなテーマである「自由」へのビジョンを感受し、それへの手がかりを見出すからであろう。

 フーコーについて言うと、彼の権力分析は、多くの社会学者や哲学者に大きな影響を与えた。暴君のようなあからさまな暴力ではなく、牧人のように被支配者の傍らに寄り添いつつ、その魂を訓育してゆく「規律訓練型権力」を可視化したフーコーの功績は計り知れないほどに大きい。と同時にフーコーが見出した「主体」の管理は、一種のデッドエンドであり、「解放」と「抑圧」が表裏一体化したような、たとえば、言葉を発することが沈黙からの解放と同時に表象作用の暴力の発現でもあるような、解決不可能な困難である。じっさい、西欧的(キリスト教的)主体のオルタナティブなモデルとしてフーコーが想定した、西欧の外部である古代ギリシアの「自己への配慮」は、西欧的(キリスト教的)主体とほとんど変わらない。フーコーによる自由と権力の問題追及を高く評価しながらも、その成否となると首を傾げざるを得ない大澤が可能性を見出そうとするのが、ルーマンの社会学理論の中核にある「偶有性」という概念である。

 世界的にルーマンの名を一躍有名にしたハーバーマスとの論争において、普遍的な正義を問題にしたハーバーマスに対して、一方のルーマンは、「どのような社会が善いか悪いか、どちらが正義にかなっているかかなっていないかについてはカッコに入れておいて、その社会がどのようにして秩序を維持しているのかを、客観的に記述することに徹する。つまり、イデオロギーや価値観から自由に、というのが、ルーマンの方法論の根幹」であることを鮮明にしたのだった。そのようなルーマンの資質は、政治的実践へと向かうフーコーとは異なって、「社会学にできることは、事態を記述することだけ」であって、「相対的な『真理』や、システムに相関した『正義』を、絶対的で普遍的な真理・正義と取り違える、押し付けがましい主張に対して徹底して距離をとる」冷めたアイロニズムと結びつく。そのような方法意識を持つルーマンがとらえた社会の様態は、政治や経済や科学などの複数の要素が機能的に分化し、「人間の意識的な統御の及ばないかたちでコミュニケーションは次々と接続され、自律的に秩序を生成していく」ようなシステムであった。そしてここでルーマンが注目するのが、システムとシステムの外部に位置する「環境」との関係である。複雑多様な「可能性の大きさ」としてある「環境」から、ある特定のシステムは、可能性の一部を切り出すかたちで、その秩序を成立させる。つまり、可能性の総和としてある「環境」の「複雑性」が縮減されることで、システムは機能しているのだ。システムの外部と特定のシステムとの微妙なずれが重要なポイントとなってくる。ある特定のシステムが成立されている状況においては、オルタナティブなシステムの可能性が消されているということが想定される。「社会秩序が成り立っている状態とは、ルーマンの言葉で言えば、複雑性が縮減されている状態です」。そのような状態の認識を突き詰めると、「偶有性」の地平が切り開かれる。

 偶有性は、抽象的には、「不可能性」と「必然性」の両方の否定によって定義される様相ということになります。つまり、「不可能ではなく(可能であり)、そして必然ではない」というわけです。わかりやすく言えば、「他でもありえた」ということです。他でもありえたのに、たまたまこうだ、というのが偶有性の意味です。他でありえないのは必然性です。また端的にありえないことは不可能性です。これらのどちらでもないことが偶有性です。

 しかし、ここで注意してください。ルーマンがほんとうに強調したかったことは、社会秩序が成り立っているときでも、偶有性は完全に消え去らない、それは常に残っている、ということのほうにあったからです。ルーマンの「意味」の定義を思い起こしてください。「意味」というものを成り立たせるのは「否定」という操作ですが、それは実現しなかった他の可能性を排除しているのではなく、むしろ保存しているのだ。ルーマンはそう主張したわけです。

 複雑性を縮減し、社会秩序が成り立っているときでも偶有性は残っている。この論点をさらに前に進めると、秩序の成立にとって脅威に見えている偶有性こそが、むしろ、秩序を可能なものとしてもたらしているのではないか、という逆転の発想にまで持っていくことができるでしょう。

『社会学史』

 なるほど、「他でもありえた」偶有性の可能性に賭けることで、「いま・ここ」を乗り越える、という試みは魅力的だし、現実性もなくはない。政治体制のドラマティックな変革のビジョンへと通じる道でもあろう。ただし、このようなことは、市民レベルではともかくとして、企業レベルやアスリートレベルでは日々実践されてることだ。大澤自身が確認しているように、「近代は変化が常態化している社会」であるわけだが、それは常に差異を産出しなければならない資本主義の要請によるものだ。資本主義体制においては、「いま・ここ」は常に更新されなければならない。アスリートもまた、現在の自分(必然)を否定し、「他でもありうる」新しい自分へと向け、日々鍛錬を積んでいる。大澤は、女性マルクス主義者ローザ・ルクセンブルクの名を引いて、「時期尚早の権力奪取の試みの反復的な失敗こそが、革命の主体を教育し、成熟させる」とアジ演説するように、本書の末尾で語っている。大澤の言いたいことはよくわかるが、私は「う~ん」と唸ってしまった。

 「主体」という言葉は、おそらく、今現在、エリートの側にあり、宗教的な空間でのみ通用するような言葉なのだ。平均的な一般人は、群れとして動く。主体というモデルは世俗空間のモデルとなり得るだろうか、という疑問がある。確か、以前、『批評空間』という雑誌の後記で、柄谷行人が、ワールドカップ・クラスのサッカー選手は、わが身ひとつで、国籍に関わらず活躍していて、彼らこそが国境を越える「個人」として期待のモデルだ、という意味のことを書いていたのだが、「普通の人」には、それは無理でしょう、と思わずにはいられなかった。柄谷や大澤の言うことは、成功したアスリートがしばしば口にする「夢は必ずかなう」という言葉と同質であり、一般的なモデルとして有効であるのか?こういう発言に対しては、香山リカのような人が「そうした言葉が普通の人を追い詰め苦しめるのです」と反論しており、そこは無視すべきではないだろう。「主体の教育、成熟」といった言葉は、現在の文化環境においては、かなり異質である。

 本書で、大澤はソクラテスに範とすべきモデルを見いだしてるが、その理由はソクラテスが「レトリック」に背を向け、「真理」の側についたからである。ここで言われている「レトリック」とは、「真実を言うより、言葉をたくみに話して、影響力のある人や大衆の願望に迎合したり、それを操作」しようとするスタイルである。それへの抵抗として、大澤は、「真理」と口にするのである。だがしかしけれども……とまたしても居心地の悪い思いがする。なぜこのようなことを書くかというと、『社会学史』という書物の社会的ポジションについて考えざるを得ないからである。本書は素晴らしい書物であることは間違いない。その素晴らしさは、反時代的な教養主義の血が通っているからである。けれども「主体」という言葉が生息できるのは、教養主義的な風土においてだろう、と思ってしまう。「主体」。「真理」。そのような言葉は、群れの動きが動向を決定する曖昧な野合が力を持つ環境においては、ほぼ無力である。

 比喩的に言うと、大澤の書物は昭和のNHK教育テレビに似ている。ヴァラエティー番組に寄った平成のEテレと交叉するところは多少あるが、民放と交叉するところがあるとは思えない(最近の民法はニュースキャスターですらヴァラエティーの資質が要求されているかのようだ)。つけ加えて言うと、平成の民放と相性が悪いことが露わになった蓮實重彦の次のような文章を読み返していて、時代の流れというものを感じずにはいられなかった。ナチス政権の時代において有力映画監督だったフリッツ・ラングのファシズムへの態度を論じた文章である。

 では、フリッツ・ラングは如何なる道を選べというのか。曖昧な他者との連帯をめざす触手を断ち切って、人間はすべからくその本来の球体性を回復し、徹底した貧しさの底まで行き、崩壊にさらされた存在を護らねばならない、とラングはいう。奪われた貧しさを凝固させ、捉われた弱さを結晶化すること。この硬質な収縮運動によって直線的=直角的な世界の呪縛をやりすごすこと。それには、馬鈴薯のような醜い球体をも軽蔑せずにこれを肯定しなければならない。そして、連帯なるものが可能であるとしたら、それは敵の球体性を快く膨張させ、内部崩壊させるために個々の凝縮した球体が孤独にその収縮をたえることをおいてはあるまい。

「フリッツ・ラング、または円環の悲劇」

 ファシズムの解毒剤としての孤立の活用が言われている。この文章が書かれた70年代においては、ここに言われていることやここに登場する言葉や表現は、何の違和感もなく素直に受け止めることができた。他の場所では「真の連帯」「偽りの連帯」「最終的には自分自身が自分自身として結晶する高貴な身振り」といった表現が書かれているが、そのロマンティックな香りに時代の変遷を感じずにはいられない。「もしかしたら死語かも……」という不安が脳裏をよぎる。「真の連帯」を夢見る、という身振りは、もはや、教養主義的風土でしか許されないのではあるまいか。現在優勢なのは、自分ではない「馬鈴薯のような醜い球体」をいち早く見つけ出し、これをターゲットにして、偽りの連帯=野合の輪を広げてゆくげんなりする風景ではないか。安倍晋三にしたって、派閥の野合により、失言大臣の任命責任を問われる窮地に追い込まれている(この原稿は2019年に書かれた)。

 東浩紀のようなジャーナリスティックな感性に恵まれた人と違って、大澤真幸の書物は「レトリック」(曖昧な野合)に満ちた世俗空間に無防備な感が否めないが、彼の『社会学史』は、この世俗の秩序が必然的な最終形態なのではなく、偶有性の運動を潜在させていることを強烈に示唆している。この真っ当な教養に満ちた刺激的な書物が正当に評価されるためにも、「昭和のNHK教育テレビ」を受け止めることのできる感性を「教育し、成熟させる」試みが必要であり、擁護しなければならない。

 さて今回は社会学についての話題だったので、社会派の音楽を。まずは、ジャニス・イアン弱冠14歳の時の楽曲「ソサエティーズ・チャイルド」。黒人と白人の間の恋愛をテーマにした曲で発表後大問題となった。

 日本からは岡林信康の「チューリップのアップリケ」。この曲も現在ではテレビ・ラジオではかからないという。私がこの曲を初めて聞いたのは、1970年代半ば、NHK・FMのラジオ番組であった。間違いなく名曲であろう。

 次いであまりに有名なマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」。ベトナム戦争へのプロテスト・ソングである。

 スティーヴン・ワンダーもそのタイプの曲が多く、名作アルバム『キー・オブ・ライフ』の収録曲「ブラックマン」もそのひとつである。長丁場の大作であるが、力強いヴォーカルで聞かせる。

 ラストはジュリア・フォーダムの「ハッピー・エヴァ―・アフター」。南アフリカのアパルトヘイトを歌っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?