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FEEL EARTH MEMORY #1

気付くと、御堂筋のアスファルトは雨で染まっていた。うっすら曇っていた視界はクリアになっていった。ぼくはさっきヤマザキデイリーストアで買ったばかりの菓子折を手に、ああ、誰も知らないどこか遠いところへ逃げ出したいと思いながら、傘を丸めたまま脇に抱えて道端にぼんやり佇んでいた。阿呆のように見えただろうし、現に阿呆そのものだった。

逃げ出すなら温泉旅館がいいなと思った。霧深い山里の旅館で、とりあえずは3、4ヶ月限定の短期バイトとして住み込んで働き、懸命に働くうち女将やご主人に気に入られ、「どうかな、うちでずっと働いてくれないか?」。そうこうするうち、若い仲居とええ感じの仲になり、ふたりで「いつかはうちらで居酒屋とかできたらいいなあ」とか語り合う。

現実逃避である。今、目の前にある「どう考えてもヤクザが経営しているだろう老舗ピンクサロンに謝罪せねばならない」というミッションから、ぼくは懸命に逃げ出したかった。これは悪い夢でいつか覚めないか、またはこの世はすべてフィクションで、どこかにあるリセットボタンを押せばぜんぶゼロに戻るのではないか。盲目的にそう信じてしまいたかった。

こんなハメに陥ったのは他でもない、ぼく自身のせいだった。2週ほど前に電話で取材のアポを入れていたのに、そのことをすっかり忘れ、完全にすっぽかしてしまったのだ。そして、すっぽかしたことさえ忘れてしまっていた。

忘れていたことに気付いたのは、滅多に電話してこない、というか滅多に口を開くことすらない、その店のスタッフ(中年男性・恐らく50代)からの電話だった。恐ろしいことに、その段になっても、ぼくはまだ重大なミスを犯したことに気付いていなかった。

「あ、いつもお世話になっております!」
「おお、にいちゃん、なにか忘れてへんか?」
「え!? なにをですか?」
「……ああ、ほなええわ」
「え、え! どういう……」
「にいちゃん、二度と来えへんほうが身のためやで」

言い捨てると、50代中年男性はガチャンという耳に痛い音が響かせて電話をたたき切った。相当に怒っているのだろうということはひしひしと伝わってきた。だが、なにを怒っているのかまったく見当がつかず、しばらく呆然としたのち、頭がまっ白になった。そういえば、10日ほど前に「取材アポ電」を入れたような気がする……。

これはマズい、これはマズい、これはマズい……。ぞっとした。冷や汗が出た。霧深い山里の温泉旅館が脳裏に浮かび始めていた。

2000年代初頭、インターネット革命前夜の風俗業界は、ひと言で表すなら「堅気じゃない世界」だった。ぼくは風俗情報紙の記者(情報誌ではなく情報紙、すなわちスポーツ新聞と同じ体裁のタブロイド紙。だからこそ、ライターではなく“記者”だった)として働き、そのことを実体験をもって体感していた。すなわち、怯えていた。朝起きて「早く辞めたい」と思い、風俗嬢のハダカを見ながら「早く辞めたい」と思い、深夜まで残業しながら「早く辞めたい」と思った。遥か彼方の蜘蛛の糸を仰ぎ見るような気持ちで、ただひたすらに同じお題目を唱え続けていた。

そう思っていたのはぼくだけではなく、記者として働いていたほぼ全員が同感だったはずだ。ある日、突然姿を消して連絡も取れなくなってしまうことを「トブ」と呼んでいたが、先輩Mはそれを3度も繰り返した。3度めにようやく正式(?)に辞められることとなるのだが、それまでは頑なに辞めさせてもらえなかった。陸地の日生学園のようなものだと理解してもらえばいい。

2度めにトンだときは、柄付きスーツを着た営業部長の号令のもと、4人の記者&編集(タブロイド紙のほかに少年ジャンプほどの厚みのある雑誌媒体もあり、その制作担当員は「編集」と呼ばれた)が召集され、先輩Mの住んでいた上新庄へ派遣された。「力尽くでも連れてこい」と言うのである。その表情たるや、青木雄二のマンガに出てくる借金取りのそれだ。

しかし、先輩Mも命がけだ。そう易々と捕らえられるわけにはいかない。追っ手が来ることはあらかじめ織り込み済み。しっかりと施錠するのはもちろん、窓際のカーテンを閉め、玄関ドア上部の電気メーターの動きから居留守がバレないようブレーカーも落としていた。用意周到である。

ここで尋常ならざる働きを見せたのが4人の追っ手だった。なにせ、手ぶらで帰っては、自分たちの身が危ない。株式会社という体裁は保っているが、その実、反社である。マトモなやつらが働いている職場ではないわけで、その環境で部長にまでのし上がっている男に、理屈が通るわけなどない。

のちにファンタスティックフォーと呼ばれる彼らは、まず先輩Mが住んでいるマンションのすぐ隣に立っていた電柱に目を着けた。奴さんの部屋は3階だということは分かっている。ハシゴの要領で電柱の出っぱりを登り、石を投げつけて窓を割れば、そこから奴を引きずり出せるかもしれない。

荒唐無稽に思えるかもしれないが、果たして作戦はあっけなく成功を収めた。そこからの先輩Mは二次元だった。お笑いマンガ道場の富永先生が書くような表情で動揺と恐怖を体現したかと思うと、営業部長に思いっきりローを入れられたのち、うめき声を漏らしながら、約20人いた制作スタッフ1人1人に土下座行脚を強要させられた。誰かが介錯すべきだと思った。言葉にならないくらい惨めだった。

(つづく)


【おまけ】
撮影現場にイって
男優デビューしてみない?

男なら誰しもが一度は抱く夢。それはプロ野球選手とパイロットと、社長。そして……なんといってもAV男優! 「でも、そんなのムリに決まってる」だって?! おい! 諦めんなよ。願えばいつか叶うって。ほら、すぐソコに夢への道が見える……。
(平成14年10月24日発行の大阪○○ニュース紙面より)