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至言は言を去り/道元の教え 6

あきらかにしりぬ 坐禅の作仏をまつにあらざる道理あり |正法眼蔵「坐禅箴」
— はっきりわかった。坐禅は作仏(さとりをひらくこと)を期待するものではないと。

スポーツ選手には、競技の種類によってなんとなく特有のたたずまい、雰囲気がある。私服の姿でいても、その人の種目がサッカーなのかラグビーなのか野球なのか、見当がつく。見る人が見れば、同じサッカーでもフォワードかセンターバックかまで見分けられるかもしれない。

ボールの種類と、ゲーム内の役割が、人の表情や所作をつくる。

もちろんボールこそがゲームの主役なのであって、表情・所作はゲームを積み重ねてきた結果として生れてくるにすぎないわけだけど、今これを反転させてみる。所作を創るためにボールがあるのだと。人間の社会・文化は結局、人々の行動=所作の集合であってみれば、これは意味のない考察ではないだろう。行動を制御するための理論はいろいろとあるにちがいないが、たった一個のボールがゲームを組織し、プレーヤーのふるまい、顔つき、行動様式にまで影響を与え、円いか楕円か、軟らかいか硬いかといったボールの物理的性質が決定的な意味をもつという事実を、まず見ようよ。

ある種の舞踊は舞台装置も小道具もほとんど使わずに、踊り手の仕草だけで、ステージ上に海も空も風も雨も出現させ、空間の硬軟、円形方形を表現してしまう。落語の名人は座ったまま、扇子のちょっとした動かし方で熱いか冷たいか、長いか短いかをありありと見せる。まるでボールがなくてもサッカーの激しい試合を戦っているかのように、名人やトップダンサーなら見せられるかもしれない。究極のエア・サッカー。それはボールのあるサッカーをつねに観察してこそできるエアの技なのであって、サッカーなしにエアサッカーはありえないのは当然だ。

中島敦の『名人伝』を思い出す。弓の技をきわめ、ついに弓なくして射るに至る。人々は名人を称えていう、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」。

弓が射を可能にした。射が至射の域にいたるとき、射は弓から離れる。射は標的を射落とすという当初の定義から遠く離れ、標的もそれを落とすことも不要となって、ひとつの純粋な所作の名となる。

仏になる(さとりをひらく)ために坐禅する。これが当初の定義だ。仏の概念が坐という、一見なんでもない日常姿勢にみえる所作に新しい意味を与えはじめる。やがて仏道の名人は知るだろう。出発点とは逆に、坐るために仏という概念があったのだと。たかが坐るために?いやいや、射も蹴も坐も、みな所作の例なのであり、ふるまいを究めさせるために弓も球も仏もあるのだ。建築家リズ・ディラーの言葉で締めよう。

"Architecture is more than just an aesthetic object. It's about potentially changing the way people behave." | The Future of Art (YouTube)

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写真=札幌ドーム地下通路|設計・原広司

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