偶然の密度
Note は「街」として設計されているらしい。
街あるいは都市を最も緩く定義するとしたら、異なるものが交わる時・処、ということでいいかな?
砂漠の真ん中で二人の旅人が出会い、言葉こそ交わさずとも目で「おたがい、無事でな!」と挨拶する瞬間は、都市だ。満員の地下鉄で戸袋に手を挟まれてもがいている小学生が無視され続ける状況は、砂漠だ。
家庭は都市だろうか?微妙なところだ。親が子を「異なるもの」と認識しなかったら、都市にはならない。
学校はどうだろう。椅子と机をグリッドに配列して壇上を注視させる空間は、到底都市的とは思えない。ルイス・カーンは校舎の設計にあたって、教室外の余白のデザインに注力したというが、そこにこそ都市文化は発生すると考えたのではないか。
原広司に『住居に都市を埋蔵する』というエッセイがある。都市は埋め込めるのだ。
「いたるところに都市を埋蔵する」プロジェクトを一人で始めようか。
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すでに埋蔵されている都市を発見するというプロジェクトも面白そう。
スタバに寄った。コーヒーだけ飲むつもりだったけど、ガラスケースにあった抹茶ナントカも頼んだ。「甘いもの、お好きなんですか?」と店員さん。「いやー... ふだんは辛いものの方が好きで」「カレーとか...?」「そういうのじゃなく...醤油味の、要するにお酒に合うやつが...」「そうなんですかー」「それがどういうわけか今日に限って、甘いのを食べてみるかと」「今日、とくべつなんですねー」
べつにどうってことない店員さんとのやりとりだけど、都市の破片のような気がした。
ツイッターやインスタで時々天才に出会う。バンクシー級の人が世界中に大勢いるんだろうと思う。かれらにコメントを書けば返事が返ってくることもあるかもしれない。でもそれは都市か?
高校生の頃、図書室で150年前の天才エルンスト・マッハに出会った。その時の状況をはっきり覚えている。紙の白さ、手触り、活字の並び、右頁の真ん中ぐらいに驚きの言葉の列が記憶のなかでハイライトされている。
図書館は都市か?
僕も予想しなかったし、マッハも予想していたはずはない。偶然が高密度に存在する場所、それが都市か?
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酒を飲むとき本が要る。
かつては開高健『夏の闇』が、今は原広司『集落の教え 100』がそれだ。どちらも旅の本。居ながらにして世界中に行ける。
見知らぬ街の露店で、信じられなく美しい夕暮のなかで「長くつらい一日はこの一瞬のためだった」なんて呟きながら一杯。
赤茶けた砂礫の原野の向こうに幻想的な集落を望む。膨大なエネルギーが注がれたにちがいない20世紀の奇跡のような記録を、酒の肴にする贅沢。「冴えわたる構想力」なんてフレーズ。どうしたら冴えわたらせられるの?構想力。
馬車道(横浜)の駅でピアノを弾いてる人がいた。構内に、誰でも弾いていいピアノが置いてある。すばらしい演奏だった。終って拍手した。でも聴いてるのは僕一人。もっと大勢通るところにピアノを置いてあげなさいよと言いたい。きっと忖度が働いてる。もしそこに群衆が集まったら通路を急ぐ人たちの迷惑になるからって。迷惑になってから移動させるんじゃだめなんですか?
ずっと前、ミラノに行った。ガレリアを歩いていると、人だかりがあった。なんだろうと思ってその後ろから覗いたら、小っちゃな仮設ステージにグランドピアノが一台。正装の少年が駆け上がると、大拍手が起こった。イタリアでは有名な子なのかもしれない。ピアノの前に座って、静かに鍵盤に指を置くと、ショパンを弾き始めた。ガレリアが光の空間だけでなく、音響空間でもあることを知った。
いま、横浜元町の歩道に設えられたベンチでこれを書いている。都市にベンチは必需品だ。
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∙ 画像=横須賀美術館図書室 山本理顕設計