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ブッダとメッシ/道元の教え 4

大悟現成し不悟至道し省悟弄悟し失悟放行す これ仏祖家常なり |正法眼蔵「大悟」

大きな悟りを得ることもあれば、悟らずに道をきわめることもある。ハッと悟ったその悟りを転がしたり、忘れて放っておいたりする。これが仏祖の日常なのだ。禅・仏教の意義は「悟り」を開くことにあるとする常識をさらっと崩す一言だ。

「弄」の字は、碧巌録* に「打鼓弄琵琶」というフレーズが見えるから、ちょうど英語の "play" に相当する。現代日本語の「もてあそぶ」とはちょっとだけニュアンスが違う。

仏教の「仏」はたしかに "awakened" という意味のサンスクリット語 buddha を漢字に置き換えたものだし、実際、目覚めし者=ブッダを手本としてその思想・態度を数えきれないほど多くの人が学んできた。がしかし、悟った(覚った)人という形容詞が、悟りという名詞に変って、なにかそういう状態があるみたいに見え始めると、話がちがってくる。

メッシが世界最高のサッカープレーヤーだとして、その技を細部まで学び、練習し、身につける。だけどメッシはメッシ、あなたはあなただ。メッシに成ることはできないし、必要もない。メッシも、あなたも、良いプレーや、そうでもないプレーを、見せつづけると何が変るのか。ゴール数いくつ、アシスト数いくつ、優勝回数いくつ、という指標(悟り)を除いたところで、どんな影響を世界に与えるのか。それはただサッカーがある、という奇跡的事実をつなげることじゃないだろうか。その奇跡中にさらにメッシやあなたが小さな奇跡をちりばめる。そういうことがある世界とない世界は、きっとちがうだろう。

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* 碧巌録は宋代に成立した禅語録。末木文美士『碧巌録を読む』(岩波現代文庫)に入門的な解説がある。訳注付きフルテキストは、末木編『現代語訳・碧巌録』上・中・下(岩波書店)。

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写真は伊東豊雄設計、高雄国家体育場に置かれた設計趣意書。"Spiraling Dragon" の文字がみえる。

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