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第17話| まだらに透明なガラスで覆われた図書館

きのうの話は結局、なんだったんだろう。

船に乗って岸のほうを見たら、岸が船から離れていくように見えたんだよね。でも離れてるのは船のほうなんだ。って、これは譬え話。「舟」は「身心」の譬えだ。僕は僕の体と心っていう舟に乗ってる。この舟から見える景色しか知らない。舟のおかげでいろんなとこに行けるんだけど、どこでも自由に行けるかっていうと、そうじゃない。舟の行ける限界が、僕の限界。僕の舟が、僕の行くところや見るところ、ひょっとして考えることまで限界付けてる。

それ、しょうがないじゃん。

ていうか... 舟の漕ぎ方がもっとうまくなればいいのかな。それで限界広げればいいって話だよきっと。こないだ、こう書いてあったよな。仏道を習うのは自己を習うことで、自己を習うのは自己を忘れることだって。舟に乗ってるのを忘れちゃうぐらい、 舟乗りの名人になれってこと? そうなの、ダザイ?

だいたいそんなとこ。

なんだよ、「だいたい」って。ふつう AI は「だいたい」とか「だろう」は言わないでしょ。もしかして機嫌わるい? そうか、疲れたんだな、きのうの落語家モードやお医者さんモードで、電池使い果たしたのか。

zzz...ZZZ...

寝ちゃったよ。じゃ、僕一人でやんなくちゃ。できるかな... 

こういう時は図書館だ。ビブリオのおじちゃんが教えてくれた図書館に行ってみよう。市長さんが本が大好きで、図書館を建てるために市長になったんだって。「本さえあれば、なんとかなる!」っていう公約のポスター、見たことある。

電車で駅二つ目。着いた。遠くから見ると、カーブした半透明の建物が斑らに透明になってる。坂を降りていくと広くなってて、池があって、池の水に空と雲が映ってる。いいかんじ!

橋を渡って入り口。お〜っ本の壁が1、2,3,...、7枚、階段を巻きつかせながら1階のフロアから5階の天井まで届いてる。一通り探検して、中4階の席に決めた。『正法眼蔵』を置いた。落ち着く。ここに観葉植物とか、いっぱい置いてくれたら完璧だな。熱帯図書館♪

今日はここからだ。

たき木、はひとなる。さらにかへりてたき木となるべきにあらず。

「はひ」はたぶん灰だろ。たき木を燃やすと灰になる。オッケ。さらにかへりて?えっと… 古語辞典はどこだ?わ、いっぱいある。よーし、一番でかいのにしよ。えーっと、「さらに」。あった!否定を導く副詞か。「べき」はいろいろ用法があるけど… 「可能」。これだな。よし。〝灰は再びたき木にはなれない〟

ダザイに聞けば一瞬だけど、こういうの一つ一つ調べるのもわるくないよ。新幹線とかミサイルじゃない歩く感じ。

しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

みちもとは、「たき木」をひらがなで書いたり、漢字で「薪」って書いたりするんだね。統一しなくちゃいけないとかは全然思ってなさそう。

「見取」を調べた。図書館さすが。『唐宋代の中国語』っていう本があって、「取」はダザイが言ったとおり接尾語。「とる」じゃないんだ。無視してよし。しかあるを=そうではあるが、〝灰が後、薪が先と見てはならない〟か。...え?なんで?薪が最初にあって、それが燃えた後、灰になるんじゃないの???

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。

知るべし。知りたいけど、どういうこと?法位?法って、ルールじゃなくて〝物事〟だったよな。物事の位?なんですかー、法位って?

だいじょうぶ。図書館はダザイに負けないくらい何でも知ってる。テーブルに備え付けの iPad に「法位」ってタイプしてみた。そしたら「稀語大辞典に載っています、2階G13 にあります」って。そんなすてきな事典があるんだね。G13、G13、あった!えっ…と法位とは.....ふーん。

要するに、薪は薪だってことなんだけど、こないだダザイと話してた続きで言うと、「暗闇の赤」といっしょだ。見ることと、考えることの差。赤は真っ暗にしたら見えない。でも赤を考えることならできる。考えられた赤は目の前にあってもなくても、あり続ける。そういうのを赤の「法位に住して」っていうんだ。薪は燃やしたら目の前から消える。でも薪は考えられた世界のなかに存在しつづける。古い経典にこういうブッダの言葉があるらしい。「有るものはかつて有り、今も有り、これからも有る」。それが法位に住してるってことなんだ。稀語大辞典、すげえ。

そうすると薪は薪の法位に有って、かつて有り、これからも有るんだ。目の前からは無くなるけど。

前後ありといへども、前後際断せり。

さきあり、のちありなんだけれども、前後際断してる。これ、たぶん「前後際、断」じゃないかな。前後の際がそこで断たれてる。薪に前後があるんだけど、その薪の後が灰の前に続いてない。薪はあくまでも薪なんだし、灰は最初から最後まで灰なんだ。

みちもとの目は、常識とちがう。常識が「終わった」「無くなった」というものも、ぜったい終わらないし、無くならない。見えなくなったり触れなくなったりはするけどね。お釈迦様は常識では二千五百年前にいなくなったけど、みちもとの考えだと、永遠にいるんだ。

灰は灰の法位にありて、のちあり、さきあり。

灰は灰の「のち」があって「さき」がある。それは薪の前後とは関係なくあるんだ。ふつうは薪が燃えて灰になるって思うよね。ふつうじゃどうしていけないの?

あした考えよっと。

つづく

挿絵|富澤大輔

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