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行動設計としての宗教、その他。

「寛容」ということばは、人の器が大きいことを指す場合と、大小は関係なくてフレキシブルな器であることを指す場合があると思う。

ムスリムになるためには、アッラーが唯一神であることと、ムハンマドが使徒であることを宣言(シャハーダ)すればいい。これほど大きな器があるだろうか。この器を個々の場面に適用するために法学や神学があり、それを修めたウラマーがいる。ウラマーの活動を特徴付ける論理性や開放性(知識を人々に開放すること)がやがて社会全体に浸透していく。

神は世界の外部にいる。仏教もやはり世界の外部(涅槃)を想定するが、それを定義すること自体が仏教の運動の一部になっている。定義は更新され続ける。ブッダも龍樹も世親もそれぞれの仕方で定義を試みた。道元もまたその一人だ。誰もが発心してそこに参加できるという意味で、仏教はフレキシブルな器と言うことができる。仏教社会に浸透するのは仏教のある時点での定義(四諦・八正道など)ではなく、それを更新し続ける態度なのではないだろうか。金剛般若経に「世界は世界に非ず、これを世界と名づく」というフレーズがある。外部を更新しつづけるとき、その影響下にある世界もまた更新されることになる。このいみで「無常」は本質的に仏教を特徴付ける。

宗教は人々の振舞いを制御する。それをキリスト教やイスラームのように外側から行なうものと、仏教のように内側から行なうものとでは、振舞いの質に違いが現れるだろう。

中村元によると「西洋人の考える平和とは、戦争がなくなって人々が快楽を楽しむことである。ところがインド人によると、静かなやすらぎの境地が平和なのである」(保坂俊司『ブッダとムハンマド』209p から再引用)

中村博士のいうところは、こうではないか。一神教の制御は行動をターゲットにする。内面までは制御しないし、その必要もない。一方、仏教の制御ポイントはより深部にあり、行動に反映されるのはその効果であると。

制御結果が直接行動レベルで現れる一神教が他の制御様式を排除するのは当然のことだ。内的制御の場合は、行動に顕在化しないから、他の制御様式と共存する余地がある。アショーカ王は熱烈な仏教信者だったけれどもバラモン教やジャイナ教などを排除しなかった。

「もっぱら自己の宗教を賞揚しまた他の宗教を非難してはならない。...各自互いに、それぞれのしかたによって他の宗教を尊重すべきである。このようにするならば、みずからの宗教を増進させるとともに他の宗教をも助けるのである」(『摩崖勅令』保坂 220p 引用)

そのアショーカ王は仏教の制御プログラムを行動(政治)レベルに実装するために粉骨砕身した:

「われは次のごとく命ずる。すなわち、われが食事中であっても、後宮にいても、内房にいても、飼獣寮にいても、...上奏官は人民に関する政務をわれに奏聞すべきである」(保坂 224p 引用)

逆に言えば、王みずから粉骨砕身しなければならないような制御システムはまだ不完全なのだ。道元はこれを改良するために仏道に向かった。その中心的アイデアはおそらく、深層の「公案」を表層に「現成」するために中間の層を厚くすることだった。彼の『正法眼蔵』とは、最も抽象的にして心的水準にある公案を、行動に変換するためのモデル、というかメタモデルを記述するプログラムなのだ。

このプロジェクトは道元単独では遂行できない。メタモデルを具体化するモデルを書けるパートナーが必要だ。そのメンバーとして予想されるのが、定家・世阿弥・紹鴎・利休である。かれらが行動(所作)のモデルを構成する。その作品を通じて、人は公案が現成される型をみるだろう。

月の存在が地球にいろんな影響を与えるのは、地球表面に十分複雑な層があるからこそだ。大気圏と水圏は生物の皮膚のように感覚細胞のネットワークで被われていて、月の運行を潮位やホルモン周期などに変換する。月は地球を周回することしかしていないが、それが地表の鋭敏な感覚系によって増幅される。同様に、公案=覚りは世界の外部の指標であるだけだが、それを地上の一切衆生に増幅伝達するための複雑系が必要だ。道元がその基本設計をし、定家チームが実施設計を書いたのである。 ......という予想を数年かけて証明するのが僕の今のシゴトである。

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