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家族写真

どうも、Dogaです。

先日、Googleフォトの懐かしい写真を眺めていると、以前一時帰国した際に実家で見つけた昔の写真アルバムのことを思い出しました。今日はそんな写真アルバムについて書いてみます。

いま僕たちは、当たり前のようにスマホで写真を撮り、当たり前のようにクラウドへアップロードし、当たり前のようにその捉えた瞬間を永遠の記録として、自分の"思い出"の中に残そうとします。

これは昔では考えられなかったことです。当時はそれこそ、過去に撮った写真を見返すためには、物理的に現像した写真を収めたアルバムを開き、そこから1ページ、1ページめくりながら「あーこんな写真あったね」「これいつのだっけ?」なんて言い合いながら昔の写真を懐かしんだものです。

祖母と兄と自分

僕が子供の頃は、インスタントカメラ(A.K.A. ばかちょんカメラ)を持って旅行に行くのが一般的でした。写真を確認するためには現像しなくてはいけません。デジカメを初めて買ったのも大学生になってからです。

ただ、こういう物理的な写真を収めたアルバムを眺めていて気づいたのが、なぜか一時期から家族写真がアルバムからなくなっているということです。そこにあるのは、埋められていない、空白のアルバムページです。

それまで、あんなに幸せそうな顔をした自分と家族の写真で溢れていたのに、途中からピタっと家族写真が途絶えます。そして、しばらく経ってまた中学生、高校生頃の自分で撮ったであろう写真が戻ってきます。家族皆で撮った写真はありません。

似たような体験をした人は意外といるのかもしれません。この現象が起こる理由は人それぞれだと思いますが、僕の場合は自分の家族の状況の移り変わりがあったのではないかと思います。

これは僕の個人的な話にはなってしまいますが、僕の父親は、僕が小学生の頃に重病を患い、それ以来施設で暮らしています。

昔は父親、母親、そして僕たち兄妹と写った写真が多かったのに、それ以来、父親が写真の中から自ずと消えていきます。しばらくは、母親と僕たち子どもたちの写真があったものの、それも一時期からピタッとなくなりました。家族写真がなくなりました。

母親が仕事で忙しく、思い出を残す写真どころではなくなったからです。察するに、僕たちを育てるために、時間の余裕も心の余裕もなかったのでしょう。

そんなアルバムの変遷を見ていると、なんだか、自分の人生の変遷を見ているようで、不思議な感覚に陥りました。もちろん、スマホやデジカメを持つようになってからは、現像する機会も減り、結果的に物理的な写真が増えることはなかったかもしれません。

ただ、やっぱり写真を撮ることにある程度の労力を要していた頃は、今とは違い、その頃の精神的な余裕の有無が如実に現れていたのではないだろうかと思ったりもしました。

今はスマホでいつでも、どこでも、簡単に、むしろ撮る気がなくても、写真が撮れてしまいます。惰性で撮れます。記録として残る瞬間の数は昔に比べて明らかに多いことでしょう。もかしたら、Googleフォトには絶え間なく毎日ずっと何らかの写真が残っているかも。

ただ、ここには、その時の僕のContextualな心境は残っていません。前後の複数の写真や、その有無がその時の自分の心境を物語ることができるというのはなかなか面白いものです。

それが何を意味するのか、良いことなのか、悪いことなのかは分かりませんが、実家で写真アルバムを眺めながら、もうあの頃には戻れないんだろうなと、妙に切ない気持ちを抱いたのを覚えています。

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