転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー(永井均)
著者はこの本の序章及び第5章「存在と持続」で、パーフィットの『理由と人格』から引用した、ある興味深い思考実験を紹介している。
「私」(永井均)は火星への遠隔輸送機の中にいる。スキャナーが全ての細胞を記録し、そのデータを火星に送信する。火星上のレプリケーターがその情報を基に火星上の物質を使って同一の身体を作り出し、同時に地球上の永井の身体は破壊される。こうして、火星に、私と性質的に同一で心理的に継続した人物が作られる。
さて、このようにして再構成された「私」は、果して「私」だろうか。それとも「私」は消滅して私そっくりの人が残るだけなのだろうか。
また、システムの誤作動により、地球上の私の身体が破壊されず、地球上にもう一人の私が残ってしまったとしたらどうだろうか。地球上の「私」と火星に転送された「私」、いったいどちらが「私」なのか。
(永井氏はここで、火星上に「性質的に同一で心理的に継続した人物」が作られると書いているが「心理的に継続」という表現には語弊がある。心理は状況に依存するものなのだから、火星に転送された私(永井)が「心理的に継続」したままであるとは思えない。彼は何らかの断絶を経験するであろう。例えば、夢から覚めた時のような。この場合の「心理的に継続」は「意識が連続している」と言い換えた方が適切ではないかと思われる。しかし、ここではとりあえず著者に倣って「心理的に継続」という言葉を使っておこう)
さて、そもそも、この思考実験は「私とは何か」を可能世界という考え方を通じて考察する前段としてある。しかし「可能世界」とはなんとも呑み込みづらい概念だ。可能世界論において「私」は(可能な限り)無数にあるという。その無数の私のうちの「この私」はいったい何によって決定されているのか、そして「私」が地球と火星に分裂し、どちらも「私」であるなんてことが可能なのかと著者は問いかけ、読者の既成概念を揺さぶる。
とはいえ、そのような可能世界論を離れて、ごく常識的に考えてみれば「どちらが本当の私なのか」などという問いは無意味であるように思える。
というのも「私」というのが自分が自分を指し示す指示子だと考えるなら、話は極めて単純だからだ。火星の私にとっては自分だけが「私」だし、地球上の私にとっても同様に自分だけが「私」である。「自分の自分に対する指示子」なのだから「火星の私」と「地球の私」のどちらが私だろうかなどと考える視点は本来存在しない。あるとすれば神の視点である。神にとって「私」は神自身だけである。
また、常識的に考えて最も受け入れがたいのは、可能世界論においては、起こり得る可能性のあるものは起る、というか、起こり得る事態は同時に実在していると考える点だ。
たとえば、サイコロを振れば1から6までのどれかの目が出るであろうことは疑いようがない。可能世界論では、この時、掌の中で6パターンの可能性を持つ世界が重ね合わせの状態で実在し、投げた瞬間に、そのうちの一つに収束するのだという。未来の選択肢として存在するのではなく、そのような可能世界が同時に実在すると考える。(正直、この場合の「実在」や「重ね合わせ」「収束」が何を意味するのか、私には分からない。また可能世界を論ずる者の間でも可能世界が実在するのかしないのか、異論は多数あるらしい)
さらに、永井氏は「たとえば今晩寝て起きると、あるいは次の瞬間にも、私であるこの人物が、物理的同一性と心理的継続性を維持したまま、私でなくなってしまう、ということが考えられることになる」と書く。
勿論「物理的同一性」を維持していれば、他人にとって、それは本人以外の何者でもないし「心理的継続性」を維持したままであれば、自分にとっても私は私なのだから、そのような仮定は全く無意味である。
たとえば、この瞬間に時が停止して、数秒経ってから再開しても一切は変らないのだから、そもそも「時が止まる」という言い方が無意味である。それと同様のことだ。
「物理的同一性と心理的継続性を維持したまま別人になる」などという仮定に何か意味があるように感じる人だけが、可能世界論における「私とは何か」という問題に興味を持つのだろう。
さて、以下の話は、火星への遠隔輸送の話からの思いつきである。可能世界論を抜きにしても、この話はとても興味深く思われた。以下は「可能世界論」とは全く関係がない。(私には可能世界論は理解できないから)
さて、火星に転送された私と地球上の私では、その時点までは心理が継続していたとしても、その瞬間から全くかけ離れた心理状態に置かれるに違いない。火星の「私」は一瞬にして(地球と空間的に連続しているとはいえ)事実上物理的に隔絶されたといっていい場所で、全く別の状況に対応させられるようになる。一方、地球の「私」は身体をスキャンされただけである。スキャンから目覚めたとしても「ああ、転送が失敗して地球に残されたのだな」と思うだけだろう。
実は、この思考実験には続きがある。
火星と地球に二人の「私」が存在することになったとして、今度は地球上の「私」が心不全で数日中に死ぬことになったらどうだろうか。
「死んでいく私は、火星にその人物が存在することによって、自分は死なないと思うことができるか、あるいは、死ぬにしても通常の死よりはかなりましだ、と感じることができるだろうか」
つまり、地球上にいる自分は確かに死ぬのだが、火星には別の自分が残るのだから「私」は結局死なないのだと思えるか、あるいは自分は死ぬが、自分のコピーが残せる分、通常の死よりましだと思えるか。
これは微妙な問題である。とはいえ、本来火星に向かうのが自分の使命だったのだから、その転送が成功したと聞かされれば、大きな慰めにはなる筈である。「通常の死よりはまし」だと思える可能性はあると思う。(『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』でロボットにされてしまった野原ひろしが、自分がただのコピーであると気付いたときに、本物のとーちゃんと再会して幸せそうな家族を見て納得して死んでいくように)
可能世界論を無視して考えると、私には、ここに三様の「私」が存在するように思える。火星の私、地球の私、転送される前の私の三者である。
決定的な断絶が転送の瞬間にあるのは間違いない。何故なら、火星の「私」が転送前の生活に戻るのは不可能なのだから。彼は火星上で全く新しい生活を始める。火星の「私」は明らかに後戻りできない地点まで来てしまっている。
しかし、既に述べたように、地球に残されてしまった「私」は身体をスキャンされただけである。スキャンから目覚めたら昨日と同じ生活が、少なくとも昨日の続きと言っていい生活が待っている。そういう意味では地球上の「私」にとっては「現在」が続いている。
(「序章」で火星に転送された「私」は何故自分が火星にいるのか知らない設定になっているが「心理的に継続」している筈なのだから、その設定には無理がある。ただ、いずれにせよ知っていても知らなくても、転送が決定的な事柄であることに変わりはない)
私には、この思考実験は時間旅行のパラドックスと同じであるように思える。
というのも、火星にいる「私」にとって、地球の「私」はかつて地球にいた過去の自分が現在の世界へやって来たように見えるであろうし、また、地球にいる「私」にとっては火星に行くという目的を達成した未来の私が現在にやって来たのと同じである。
地球にいる「私」は、当初は、転送が失敗したので自分は地球に残ったのだなと思っているであろう。しかし、後から、転送が完全に失敗だったのではなく自分の分身が火星に存在していることを知らされる。「私」は火星に行く筈で、それが「未来」だった。しかし転送が失敗したので、その未来は失われ「私」は現在のままを生き続けることになった。ところが、火星への転送は実は成功していた。「未来」は実在した。その瞬間に「現在」は「過去」へと転換する。今の自分は「過去」となる。
翻って「火星の私」は未来を手に入れている。「未来」は「現在」になった。しかし、彼は地球に元の自分が存在していることを知らされる。地球上の「私」とは、失われた筈の過去の亡霊が生命を帯びて現れた存在である。
そして、計画通り転送が成功した場合は、未来の私も過去の私も問題にならないであろう。過去の「私」は無事消去され、火星における「未来の私」=「現在」だけになる。
火星への転送において「心理が継続している」とは「現在が継続している」ことだと言い換えてもよい。
転送が失敗して地球上に残ってしまった場合のみ、時間旅行が生じる。地球と火星は空間的にも離れているのだが、それ以上に時間的に隔絶している。二人は同時に存在するにも関わらず時空がずれている。「今、ここ」を共有することができない。
こういった事情を考えるなら、火星への移送が概ね成功したと考えるなら(火星へ行くという目的を抱いた)「本当の私」は火星の「私」の方であるし、火星への移送が失敗であったと考えるなら「本当の私」は地球の「私」の方である。
とはいえ、世界にとって「永井均」が二人生じてしまったのは多少困ったことであるかも知れないものの「本当の私」にとってはさほど重大な矛盾は生じていないのかも知れない。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、過去に行ったマーティーが自分の母親に惚れられてしまうというアクシデントが生じ、パラドックスが発生する。
あまりにもかけ離れた場所に移動してしまった火星の私と地球の私の間では、このようなパラドックスは生じない。同じ場所に同時に存在することは不可能なのだから。
(注)
『この思考実験は「私とは何か」を可能世界という考え方を通じて考察する前段としてある』と書いてしまったが、実際には著者の意図は異なるであろう。これは可能世界論への前段ではなく、むしろ可能世界論など既成の概念を取っ払って、原初的に手探りで思考するためのものなのだろう。
しかし、それだと読者は(少なくとも私は)、目的地も知らされないまま泥沼を這うように進む気持を味合わされることになる。著者だけは「可能世界論」という秘密の鍵を握っているのだが、それは本の後半部分まで伏せられている。読者は、そこに至って「早く言ってくれよ」と思う。
私は、この本は素直に可能世界論を論じたものとして最初から読み進むのが良いと思う。
また、本来の可能世界論では一つの世界に「私」が複数実在する状況は考えられない。別の私がいるのはあくまで別の可能世界だし、別の可能世界に行くことも出来ない。地球と火星は別の可能世界ではない。