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#27 言葉の重み

先日の忘年会で、言葉の、解釈の違いを痛感しました。

最近のマクドナルドのCMで、
「正解なんて分からない、選んだ道を正解にする」的な言葉があり、
最近、胸に響いた言葉だった、と話したところ、
「正解の道なら、もっと自然体で生きていけるはず、選んだ道を正解にしようと「努力」している時点で、すでに自然体ではなく無理がある」と反論?

私は、考えて、悩んだ末に決めた道は、基本的にはどれでも正解で、その後の解釈次第で、正解だったと思えるかどうかの判断が分かれるのでは?
正解だったと思えるように、その為の努力は必要では? と補足。
(どうして「努力」に議論が波及したかは覚えていないけど・・・、)

私にとって「努力」は、誰かに押し付けられるものでもなく、
文字通り?、「そのように努める」程度の表現だったのですが、
やはり、その友人は、すっごく拒否反応し、
「そもそも努力しないといけない時点で、その道は違うの!!」と、
重ねて反論?してきたのです。
やはり、思いっきりすれ違っている気がする。。。

きっと「努力」と言う言葉に対し、過去に、何かネガティブな経験があったのでしょう。
私は、「必達」や「ノルマ」といった言葉を言われると、とっても気が重たくなる様に、この人にとって「努力」は、だれかに押し付けられる、気が重たくなる言葉だったのかもしれません。

そう考えると、言葉ってなんでしょう?
ある一定のルール(文法)にそって、自身の考えを伝えたり、コミュニケーションを交わすのには便利だと思いますが、
どうやら、自分の想いを完ぺきに伝える事は出来ないみたいです。

私もそうですが、
誰かの何気ない言葉に、とっても、それこそ死にたくなるほど、傷ついた経験がある方もいると思います。
でも、大抵、言った本人は、その事を覚えてさえいない。

そう、「言葉の重さ」は、人によって異なるのです。

自分の発する言葉によって、相手がどのように感じたのかを、正確に把握する事は、おそらく不可能だと思うし、軽い気持ちで発した言葉でも、心が救われる人もいる。

ならば、自分に向けられた「言葉」は、全部、自分へのエールだと考えて良いと思うのです。
言葉を発した方も、言葉を受け取った方も、どちらも、完ぺきではなく。
言葉の解釈は、受け取った方に委ねられるのだとしたら、
全部、自分へのエールだと考えても良いと思うのです。

以前、「トワイライトゾーン」で、「無視刑囚」という話がありました。
これは、「人は、存在を否定され、世の中から無視されることが一番ツライ」との考えによる、想像の刑罰なのですが、映像をみていても確かにツライ!
確かに、存在を無視されるよりも、
例え、悪口であっても、厳しいコトバであっても、自分の存在を認めてくれることで、生きている実感「生存本能」が満たされると思うのです。

だから、繰り返しになりますが、
自分に向けられた「言葉」は、全部、自分へのエールだと、
無邪気に受け止めることにします♪

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