コロナ収束を願って打ち上げ花火、粋だと見るか?穿って見るか?
「コロナ収束を願って打ち上げ花火」という題のニュースを見た。自粛で滅入った気持ちの打破と医療従事者へのエールを兼ねて、花火を打ち上げるとのことだ。Twitterなど見ると粋なサプライズ、嬉しいことをしてくれるといった好意的な反応が大多数だった。ただ私はそれらと異なる、少数派に属するであろう感想を抱いた。
「コロナと花火に何の関係があるんだ?」
「収束を願うんだったら花火打ち上げる金をそのまま寄付した方がいいんじゃないの……?」
思い返せば何日か前の夜、シャワーを浴びていたらドンドンと地響きがして。何の音だろう?と思い、小窓から外を見た。どうやら近くで花火が打ち上がっているらしい。「まあ夏だし花火の一つや二つは上がるか。毎年これぐらいの時期だったっけ?」なんて独りごちながら、シャワーから出てその日は床に就いた。
その時はただの夏の風物詩として処理していたのに、コロナ復興が枕詞につくと違和感がある。 なぜだろう? この心の動きの理由を少し考えた。
結論としてはそもそも私は花火に興味がないのだろうなと思う。そして興味がないからこそ穿った見方をして、少数派の意見になったのだ、とも思う。どういうことか。
5月末、コロナに尽力する医療関係者へのエールと称されブルーインパルスが都心を飛行してた。私はあれを好意的に捉えていた。飛行機が隊列をなして曲芸のように飛ぶのを見て、わーすごいなと純粋に気分が高揚したし、手を振る医療従事者の写真を見て顔を綻ばせていた。コロナと飛行機の関係性とか飛ばす金を寄付するなんてことは考えもしなかった。
今ならわかるんだがコロナ収束を願って、打ち上げ花火を上げることとブルーインパルスが空を飛ぶことは本質的には同じことだ。同じなのに私は異なる感情を抱いた。両者の違いは私がもともと興味があったかなかったか、それだけだ。
思うにエールや応援、祈りというものは、その受け取り手が嬉しさや心地良さを感じないと成立しないのだろう。
打ち上げ花火に興味がなかったから意味のわからんニュースだと俯瞰的に冷笑して捉えたとも言えるし、ブルーインパルスに興味があったからハッピーなニュースだと狭窄的に歓迎して捉えたとも言えるのかもしれない。
チアガールがダンスすることも、管楽器で演奏することも、千羽鶴を贈ることも、ブルーインパルスが空を飛ぶことも、打ち上げ花火が上がることも、手を合わせて拝むことも、頑張れと声をあげることも。
エールに類するそれらの行為はその対象と直接的な関係がない。エールというのは習慣化されてるから、儀式化されてるから、多くの人が嬉しいと思うからという理由で行われているのだろう。不合理的な行為なんだ。
そのエールを嬉しく思う人間もまた不合理な存在なのかな……なんてちょっと飛躍した結論をもって文を終える。
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