PTA組織への加入が任意なのに「加入前提になっている」ことへの疑心
どうも、えんどうです。
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
あんまり積極的になろうとは思えなかった。
何も触れずにいることで他の誰かがそれとなくこなしつつ、特に波風も立たぬのであれば「そのまま」でいいだろう...期待することもなければ、期待をかけられたとしても応えようとも思わない。
それが現状、多くの学校に属す子どもと生活をする保護養育者たちが抱えているPTAに向けた率直な感情ではないか。過去に何度も以下にリンクで紹介しているBussFeedの記事を読んできただけで当事者にもなっていないような立場から見ていた世界観がそれだ。
#PTAやめたの私だ 「入会しません」 ひとりの主婦の静かなる抵抗
PTAという「国家的組織」に組み込まれる親 あきらめる前に知っておくべきこと
今回、怖いもの見たさもあり次男くんが小学校へ入学するのを機にPTA役員へと足を踏み入れてみたものの、一歩目からしてあまりにも酷い状態であることに関わりを持って初日から辟易としている。
他の学校を支えるPTAも大して変わることのない構造なのであろうことを考え、個別具体的な話を持ち出すのではなく、共通項を切り出しながら話題を広げていくようにしてみようと思う。
えんどう、PTAに関わる。だ。
▶︎ 「地域が一丸となって...」に感じる虚無性
早速で申し訳ないのだが、やることが決まっている前提で体のいい雑用係を各クラスから強制的に招集するための取り組みであることが透けて見えてしまった。それが初日(入学式当日)である。
「子どもたちのため」と銘打ち、自分たちが行なっている事柄を正当化することが常態化しているからか、批判的な姿勢や態度を取ろうものなら吊し上げになってしまいかねない殺伐とした雰囲気である。
PTA会長から発せられる「地域ぐるみで」とは、学校周辺や学区内に共存する大人たちを指すものではない。学区内に住んでいる小学校に通う児童たちの親たちのことだ。
実際、長男くんが小学校に入学して以降、学校の各行事に各地域の住民が支援している様子など垣間見ることなど微塵もなかった。もしかしたらPTA役員、もしくは会員内部では「どこどこの誰々が...」と内容が共有されているのかもしれないが、ぼくが認識していない時点で末端の児童保護者までは届いていないのはたしかである。
仮に、実際に地域住民や地域事業者が「子どもたちのために...」と事業リソースの中から金銭的な資産なのか、物品的な資産なのかを学校の行事に向けて身銭を切って提供してくれたのだとしたら、それは大々的に周知されて然るべきだし、それこそ事業者にとっても自らが取り組む事業を学校周辺に住居を構える住民に周知できる機会なのだから、きっちりと広報支援をすべきだろう。
それが果たされていないのであればPTAの怠慢だといえる。
地域の事業者が事業リソースを割いていなかったり事業者でなくても協力を申し出ていないのだとしたら「地域ぐるみで」といった言葉を詭弁だと捉える他にない。
つまり、体裁のいい言葉を発していれば自分たちの取り組んでいる活動に正当性を持たせることができると考えられているだけで、本質的には「仕方ない」とか「例年通り」といった前例踏襲型よりも劣る、責任を持ちたがらない人たちで構成された悲しいほどに虚無性の高い組織なのだと見えても仕方のない状態なのではないか。
▷ 任意入会のはずが自然と強制入会となる”空気”
任意加入が前提であるはずの入会は、いつの間にやら強制的に入会することが当然のような空気感がある。これは何もいまに始まったことではない。ぼくが小学生だった30年前から何ら変わっていない空気感だ。
小学校在籍時のぼくですら感じていた大人たちの「仕方ない」といった空気感を、いまだに引きずっていることは小学校などの教育状況が30年前と何ら変わっていないことと相まって絶望すらしてしまう。
これまでにも当然存在したであろうはずの改革派のような人たちは存在してなかったかのように扱われ、全くといっていいほどに影響力を残せなかったわけだ。それだけ組織的な圧力といえるだけの悲しくも重苦しい空気感が漂っていることを考えると本当に根深いものがあると実感せざるを得ない。
この空気感を生み出しているのは「過去に大変な思いをしてきた人たちの怨念」ではないか。
「自分が大変な思いをしたのだから同じ属性を持っている人たちであれば同様の苦渋を味わうべきだ」と他人の足を引っ張り、苦しめようとする人は一定の割合で存在する。
自分が苦役を強いられたと感じているのであれば、他人にまで影響が及ばないように仕組みや構造を変えて欲しいものだが、他人にまで自分と同じような苦役を強いようとする、まるで死神のような存在である。
そんなクソみたいな思想に付き合っている暇と時間は結果的に子どもたちへの態度となって跳ね返ってしまう。
教員の業務負担を減らすことの目的は、やらなくていい事柄から解放することで心身ともに余裕を持ってもらうことで児童たちに注力できる状態を用意することにある。
▷ 説明不足な上に押し付けあいの生じる悲しみ
ならばPTAはどうか。同様である。
PTAに属する保護養育の責任者たちが共働き世帯が増えているために余裕のない生活を送らざるを得ないのにも関わらず、仕事や生活以外にも心身が削られるような事態を強いられようものなら家庭における子どもたちへ影響が出ることは想像に難くないだろう。
そんなことも考えられないほどに機能不全や構造的な問題に陥っていることを自覚できないのだろうと思うと、ワクワクして眩暈がしてくるほどだ。
今回、次男くんが小学校入学するに際し、PTA役員に手を挙げることとした我が家だが、入学式後に各教室での行事を終えてから担当を割り振ることになった。
そこで「〇〇」「□□」「△△」「...」「...」と複数あがってくる。説明するのは幹事と書かれている。それが何なのかもよくわからない。
次々と挙がってくる役割が最後まで出たあと、「この中でどれがいいですか。選んでください。」と無機質な投げられ方をされる。何の説明もなしで、だ。手元には資料らしきものが用意されているものの、対面しているのだから質疑応答をするのかと思いきや上から目線で押し付けてくるような態度である。こちらが説明を求めたから”既にやることが決まっている”各行事での役割と果たすべき内容が告げられた。
そもそも”実施を前提にしている企画”に後から役員を割り当てるといったことが不自然なことであると思っていないのか、思えないのかはわからないが担当者を決める段階になった時点で「前提条件が揃っていない」のに「何がいいのか選べ」とは随分とブラックな組織ではないか。
運営や組閣体制自体に根本的な課題や問題点が露見しているわけだが、まったく持って話にならないどころではない。到底、話などできそうもない雰囲気がプンプンとしてくる。
これから関わることになった立場で好き勝手に書いているのだが、どうでもいい事業の進め方をして苦役を貪りにいくような事態を少しずつでも避けていくようにするだけでPTAの組織体制がスリム化できるのは火をみるよりも明らかだ。
▷ まだまだ続く…
正直、末端に属する立場として好き勝手いわせてもらえば、PTAが行ってきた取り組みの締めくくりである広報誌には一通り目を通したが、はっきりいって印刷費用が無駄なのでやめて欲しいし、何かにつけて「子どもたちのために」と旗を掲げて精神的な強制力を働かせようとする連絡手法も改善すべきだ。
任意団体であることや好意から生じる行動を前提にしているのであれば、他人に強制するような態度や姿勢は大きな悲しみを内包することになり、結果的に”やった人同士で傷の舐め合い”をするしか残るものがない。
はっきりいって時間の無駄だ。
会議を日中に行うなど、前提設定自体が間違っているし、協力を請うのであれば相応の責任を全うできるだけの体制を整えるべきだろうが、誰もやりたいと思っていないことを嫌々ながらに取り組んでいくのだが、二言目には「子どもたちのため」といえば水戸黄門の印籠のごとく誰も物を言えなくなる。
やらなくていいことはしたくない。いや、根本的に楽をして生きていきたい側の人間からすると、ドロドロの感情で埋め尽くされるような場所や組織など、いたとしても得るものは何もない。いや、達成感はあるのかもしれない。苦役に耐える自分を褒め称えるような苦役だ。
そして、それを新たに参加してくる新参者に向けて同様の苦役を求める、もしくは仕組み的に苦役を強いれるように仕組む。
すばらしきかな、PTAである。また書くかもしれない。
ではでは。
えんどう
▶︎ おまけ
▷ 紹介したいnote
かなり多くの人が参考にできるものであることは内容を読んでもらえれば済む。山口さんはまだまだ道半ばなのだろうが、同様に苦しんだ末に改革を断行したいと思っている人たちは一定数いるはずで、それを持続可能な状態にすることの方がSDG(SDGsとは表記しない)的にもよさそうだ。
社会に出る人たちの素養に「面倒なことを仕組みとか構造で解決しようとする人」を求めるべきだ。なぜなら、その人たちは基本的にめんどくさがりで自ら汗を書いて工数をどうにかして捻出しないようにしたいと思っている派だからだ。そして、そういう人たちこそ社会を良くしてくれる。
Googleフォームは徐々に活用され出している印象だし、それ以外のツールも徐々に浸透していったらいいのに...と思う反面、新たに導入しようとする際の抵抗感がとてつもなく強大であると耳にすると笑ってしまう。ほんと、どうしようもないなと思うのと同時に、だからこそ変わればいいのにと思う次第である。
▷ 紹介したい関連書籍
正直、本書の随所に出てくる主義や主張は反対したい。あまりにも自身の過去と感情に囚われていると思いかねないような印象を受けざるを得ないからだ。しかし、それ以外の歴史的な事実を積み重ねる資料による説得力は大いに評価できる。この点においてオススメしたい。
▷ えんどうのTwitterアカウント
僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!