TOKYO2020ってスポーツの大会で選手に向けての誹謗や中傷が蔓延ってるので『不寛容社会』(@May_ROMA)を再読した話
どうも、えんどうです。
今日の雑談は、Twitter界隈をやってたら何かしらの形でタイムラインに現れたことをがあるかもしれませんが、 @May_ROMAさんこと、谷本真由美さんの著書である「不寛容社会」を久しぶりに引っ張り出してきて読んだ次第ですって話です。
なんでこの本を引っ張り出してきたのかって話ですが、最近、オリンピック選手に向けて誹謗や中傷が話題になることがTwitterの中で増えてきたことからで、以下にリンクしている太田雄貴さんの投稿も、その一つです。
日本の中だけとは言いませんが、なぜ、関係ない人物をそこまで一生懸命に自らの時間を使ってまで叩こうとするのかが不思議なのですが、その辺りを @May_ROMAさんが説明してくれていたのを思い出したところから読み返しましたので、少し紹介しようかな、と。
なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにはいられないのでしょうか?
なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
なぜ日本人は些細なことで正義感を発揮しようとするのでしょうか?
日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?
費用対効果の高いコンテンツとしての他人叩き
@May_ROMAさんは、まず雑誌やTV、新聞、ひいてはネットメディア等のメディア側から見た“他人叩き”というコンテンツの優秀さを分析します。
結局、既存メディアが腰砕けなだけであり、弱腰だから他人を叩くことを増長させやすい状況を作れてしまうということを示唆しているのですが、その説明として2016年東京都知事であった舛添氏の経費の不正使用から辞任になったケースについて触れます。
舛添氏の経費における態度があまりにも庶民感覚すぎていたからこそ、マスコミが増長したし、それを享受する市民感側に火をつけてしまったというのですが、大企業への厳しい追及や、内戦中のシリアへ取材を敢行することなどのリスクの高い案件に比べたら、すでに“何かをやらかしてしまった人物”というのは、なんのリスクもなく叩けるうえ、ある意味、安心して利用できますよね。
商売の原則である安く仕入れて高く売るということをしっかりと実践してくれている訳ですが、その標的になっているのが政治家や芸能人、今回の例でいえば時の人となり得るオリンピアン(オリンピック出場選手)。
要約すると、読者や視聴者の感情に刺さりやすい対象で批判を考えているってことになります。以下は @May_ROMAさんの言い分として書かれている内容を引用したものですが、「たしかにな」と納得します。
日本人は表面上は礼儀正しそうに振舞いますが、いやらしくて意地の悪い人も割と多く、人の幸福や人生の喜びが大嫌いな国民です。
人様の不幸は悲しまないのに、桜が散ることを惜しむ、という矛盾した面も持っているのです。
ウチとソトの断絶
日本人の特性を上げる際、著者は中根千枝の『家族を中心とした人間関係 (講談社学術文庫)』を紹介しています。
その内容は『ウチ』と『ソト』の断絶。
ウチとするのは、わかりやすくいえば村八分ということでしょうか。
自らの安全地帯に身を置き、その中にいる人間は味方であり、家族的な信頼感を置く。しかし、いったん、場所や会社が変わったら他人、ソトの人となり、待遇も一気に冷たくなる。
会社が変われば年賀状のやり取りがなくなるなど、数日もすれば会社に出向き、顔を合わせるにもかかわらず、年末のバタついている時期に必死になりながら用意したうえで投函をし、正月の昼間から何をするわけでもなくすごしている中に届く年賀状をみる。
記載する内容といえば、他にも伝える手段はいくらでもあろうものをわざわざ時間や金銭的なコストをかけてまで伝える内容かといえば、決してそのようなものはなく、たいしたものではない。
そんな大したものではないくせに、同僚の先輩や上司は「なんだ、あいつ出してこないじゃないか。常識がないやつだ!」などと尻穴の小さいことをいい、さもあれば年始に出社し、後日、小言を言われてしまうなんてこともあり得るみたいですね。
そんな半ば家族的なつながりを強制的に抱いておきながら、会社や部署が変わることで「あいつは他所に移った」とか「もう他人だ」などと、いやに冷たい態度をさも当然のように抱いたりするのってどうなんでしょうね。
まったく持って、それってのは不寛容な姿勢そのものです。ただ、これは何も会社組織だけに限った話ではなく「日本の女性」や「子どもと生活をする親」、「結婚している男性」など、いわゆる“世間一般的な常識”とされるレイヤーごとに分けている人たちにも存在します。
本の中では懐かしい気分にもなりますが、高畑裕太氏の親に謝罪を求める心理に当てはめた上で説明している一節もあり、これは当時も疑問に思っていましたが、はたはた意味のわからないものでした。
高畑淳子氏の息子で俳優の裕太氏が不祥事を起こした際、なぜか親である淳子氏が64分間も立ちっぱなしで謝罪することになっていましたよね。
これをする側(淳子氏)も求める側(マスコミや視聴者)も果たしてどうなのかな、なんて思う次第です。だって本人じゃないんだもん。
こんなことが起こる背景について@May_ROMAさんは、以下のように解説しつつ、その異常さを否定するとともに、個人主義についても説明する。
日本人は親と子どもを別人格として考えておらず、「血縁関係にある家族」を一つの運命共同体として考えていることも影響しているはず
人間は受精した時点で親とはまったく異なる生命体であり、人格も何もかも異なる生物です。
一人ひとり違う生命であり、同じ人は一人もいません。それはたとえ親子であっても同じこと。違う人間だからこそ考え方も行動も異なってきます。
こうした違いを尊重することは人間尊重の基本原理ですし、近代民主主義や資本主義の下地である個人主義の考え方です。
この『個人主義』という考えは、ぼくのような地方在住者だけが感じるのではなく“異質な考え”にはひどく不寛容な態度を取る大人が存在するのを目の当たりにした経験がある人も少なくないのではないでしょうか。
正義感
だこの異質な考えに不寛容な態度というのは、集団になると非常にヒステリックな行動をとるようになります。いわゆる常識というのは、現在の45歳前後の人たちが享受してきた社会的な雰囲気から作られたりするわけです。
どういうことかというと、たとえばミレニアル世代(1980年以降)と呼ばれる世代の特徴は、育っていく過程の中で携帯電話やインターネット、ひいてはSNSが当然のように存在するのが、時代でありその人たちの生活背景です。
しかし、この世代よりも上の世代は、当然ではありません。
それを受け入れるのに時間を要したり、否定したり。それが多数になれば、いわゆる常識というものが出来上がり、その態度を前提とした正義感が醸成されます。
養老孟司『遺言。 (新潮新書)』の中で、言葉の効用について以下のように述べている。
いうというのは、言葉を使うということであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。
「同じ」を繰り返すことによって、都市化が進んできたことは否定すべきではないでしょう。
先代の日本人は、都市化を邁進し、満腹になるまでご飯を食べられるように必死になってきたわけですが、その結果が、日本の経済大国化であり、先進国の仲間入りなわけです。
引き継いだ次の世代の人たちが作った社会ではどうなったのかを@May_ROMAさんは、本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める不寛容さについて指摘している。
本書内から引用すると、以下のような“態度”が本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める一例です。
始業開始に五分遅れた
メール返信に半日以内にしなかった
ロッカードアの締め忘れ
押印のズレ
これらは、いわゆる(ボクもこれから迎えるであろう)大人たち世代は何をしたいのかを考えるべきなのかな、なんて思ったりします。
これを求めたことによって、営業利益に直結するのかどうか。これを求める態度を突き詰めていくことで、サービス残業をせずに帰れるのか。求め続けた結果、細かいことばかりにとらわれ、本質的なことを見失わないか。
そんなことを考えたいものです。
日本のジェンダー観、大丈夫?
同質圧力というのは、何も男性や会社組織に限ったことではなく、日本のジェンダー観にも現れてますよね。
キャラ弁とか手作り弁当とか。
子ども生活をする保護者であれば、一度は目にしたことがあるキャラ弁。昨今のキャラ弁における隆盛ってのは、日本のジェンダー観における同質圧力を表現するのに適していたのかもしれません。
@May_ROMAさん、こんな風に書いてます。
手間暇かけてお弁当を作る母親が日本では「素晴らしい」のか?家事をしない母親は「悪い母親」なのか?
“母親”が手間暇かけて弁当を作る、ということ自体が時代錯誤ですよね。しかも、専業主婦なんて言葉もたかだか100年ほど前にできた言葉で、当時は時代的にはサラリーマンが珍しく、高給取りであったことが前提で生まれたものです。
専業主婦という身分(被扶養者)を支えられる経済力を世帯で一人に押し付けることって、今は現実的ではないし、そんな専業主婦たちがやっているキャラ弁づくりは一円にもなりません。
ブログのアフィリエイトをやっている人は少しぐらい稼げるのかもしれませんし、YouTubeで稼げる人もいるのかもしれません。そういう人はいいですよ。だって稼げてるんだもん。コンテンツのネタとして受けてるって証拠です。
ただ、そうではない人たちがせっせとキャラ弁を作り、何枚も写真を撮り重ね、ブログ記事を書くのであれば、人的資本を高め、その対価を対企業から得た方がよほど有益なんじゃないかと思うのですよ。
他人と自分が違うことを認識する
詰まるところ、日本は同調圧力が強く、人と違うことを受け入れるのにすごく時間がかかっちゃったりします。「人と違う」ってのは、自分が経験していないこと、つまり、わからないことです。
分からないから否定するのではなく、分からないからこそ、その際を埋める努力が必要。その第一歩が、自分が他人と違うことを認めるということだよね、なんて思ってます。
最後に著者の言葉を引用して終わります。
人間は一人ひとりが異なる生命体であり、誰一人同じ人はいないのです。(略)親子だから分かりあえる、夫婦だから理解し合えるというのは幻想です。最初から意見など通じませんし、異なる生命体なので、お互いを分かり合える日は一生来ないのです。
日本的なものの見方をすれば冷たい様で、実は何よりも人のことを考えた一文じゃないかなって感じた次第です。
長くなってしまいましたが、以上です。
ではでは。
えんどう
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