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#何気ないツイートから始まる物語 (14話)〈"場所"としてのスポーツ〉

何気ないツイートをきっかけに、スポーツビジネス界の大物と地方都市に住む一般人であるぼくがイベントを企画・実施することになり、その後の人生に大きな影響を与えることになったことを記した、ちょっとした物語。

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前回まで
サポーティングチームが起ちあがり、チーム内ではじめたことは全ての情報開示。支援者はもちろん、支援者の知り合いにまで広がった輪のなかで、できること、できないことを共有し、それをどう埋めていくのかを議論しはじめた。

以下、コアメンバーであるとともに、サポーティングチーム発起人の福田拓哉さんが、立ち上げ当初に書き込んだ内容の一文を紹介する。

皆様、本グループを作らせてもらいました福田拓哉です。
改めましてサポーティングチームにご参加頂きありがとうございます!通常は大学や企業などの組織を通じてこうしたセミナーは開催されますが(企業や組織でもこんな豪華メンバーは中々揃えられないでしょうが…)、今回は遠藤涼介さんという個人の挑戦が起点。
信用、告知力、そして資金を勝ち得るためには皆さんからのご協力が欠かせません。その点、我々にとっても冒険なのですが、速攻でこのグループに入って頂いた皆さんの存在は大変心強いです。
また、こうした個人の繋がりでどれくらいのインパクトを残せるのかという興味が私にはあります。同じ思いを持たれているメンバーの方も多いのではないでしょうか?
つまり、本プロジェクトは社会的な実験という側面も持ち合わせているわけです。

これを書いてもらった当人としては、この動きを立ち上げてくれた福田拓哉さんをはじめ、賛同をしてくれる人たち、声をかけて広げてくれる人たちに対して、深く感謝をしたいと思えていたし、実際にPCの画面にドンドンと入ってくる自己紹介の数が増えるたびに、大きな感動を味わっていた。

このような「ある人の動きに賛同」した上でグループ化し、立ち上げては動かしていく際に考えられるのは、場所としての役割だ。この場所が、各個人にとっての居場所となり、生きがいになり、やりがいになっていくのであれば、一つのコミュニティとして成立する要件を満たしていると言える。

それは実験の場であり、意見をぶつからせる場所であり、助け合いの場所となるのを、ぼくは一番の当事者として経過を見ることができた。本記事では、それを書いていこうと思う。

社会実験の場として

先に触れた福田拓哉さんの文章にもあるように、立ち上がった今回のプロジェクトグループは、社会実験の場だ。

個人発のプロジェクトだったとして、そこに社会的な意義があるのかないのかを判断するには、その動きが社会的な認知を得たのかを検証する必要がある。社会的な認知をどう定義するのかにもよるが、各種メディアに取り扱われるような内容であったのかどうかは一つの指標になる。

メディアに扱われたのか。
扱われたのであれば、どう扱われたのか。
どんな媒体にどれぐらい露出したのか。
そこから得られた反響はあるのか。
反響から、さらに反響を生むことができたのか。

異なる尺度を用いれば、そこに参加した人がどれぐらいいるのか。
賛同し、行動を共にしようとした人たちの数はどれぐらいか。
その内実として、どんな人たちが参加しているのか。

数は重要ではないとは、イベントの主催者として述べることはできないし、述べられない。イベントを主催する以上は、金銭的なリスクはもちろんだが、主催するにあたって、自分自身が抱いていた課題や問題を解決したいと思っているからだ。

もし、そこに対しての課題感を全く共有できていないのであれば、人は集まらないだろう。集まらない、という結果は「行動を引き起こす」だけの魅力がなかったことになる。

魅力は十分にあったのかもしれないが、それを広く伝搬する周知や告知ができていなかったことにもつながるかもしれない。

どうやったら広がるのか。

どうすれば多くの人に届けられるのか。

どうしたら参加してくれるのか。

そんなことを興味のある人たちが意見を寄せ集めながら、実際に検証をできる場所だから、社会実験。中に入ってくれた優秀な人たちが、本業で活かしているであろう思考や体験からの経験値を駆使して、仮説と検証を繰り返す様子は、たまらなく興奮した。その過程だけでも、十分にコンテンツとして成立するものだし、一つの会社組織なのであれば、成果につながるだけの顕在的な能力を集結している。

そんな場所になった。

共通語としての『スポーツ』

優秀な人たち、というのは非常に曖昧な表現になってしまって大変恐縮だが、ぼくから見たら本当に優秀な人たちが寄り集まってくれたという他にない。

誰もが知っているようなスポーツ用品メーカーの中の人もいれば、プロスポーツクラブで実務として取り組んでいる人、PRを生業としている人もいれば、教育事業に携わる人、中には大学の教員として働く人もいたりして、本当に様々な業種や職種の人たちが一つの共通語のもとに集まってくれた。

『スポーツ』

言葉にすると、たった一つの語句で、それだけの言葉でしかない。

それなのに「地方に在住する、誰でもない個人」であるぼくの取り組みに対して、賛同してくれた上に乗っかってくれようとしてくれる人がいる。よってきてくれた人たちと、実際に意見を出し合いながら、立てた仮説に対して検証しつつ、成果につなげようと必死に考え、動いてくれる。

それらの動きが結果的に、プロジェクト自体がうまくいくかどうかに対して大きく寄与するであろうことは目に見えていた。つまり、クラウドファンディングの成功するかどうかが一つの大きな要因になるということだ。

しかも、日本の中で、同様の事例を目にしたことがなかったことから実施に向けて動き出しているからこそ、このクラウドファンディングは成功できなかったとしたら、ぼくがやる意義はない。

それでも、ぼくがやる意義はないと大きな態度に出るものの、弱音を吐けばいくらでも出てくる。そうとはいえ身銭は稼がなければならない。つまり、生活をしなければならないし、できなくてはならない。2018年4月には三男が生まれたし、就労環境を4月には変えたため、全くもって生活状況に慣れていない中での舵切りをしてクラウドファンディングまで漕ぎ着けていたため、随分とストレス要素の高い時間が経過していたし、その中で参加したことがあるとはいえ、クラウドファンディングの起案者として活動をしなければらない部分は、正直にいえば重荷でしかなかった。

また、(当時の)就労環境的に、企業からのスポンサーを募れるほどに外に出て動き回れるようなでもなかったため、営業活動を一人で取り組みたいと思いつつも、家族はまだ小さな子どもが三名おり、先にも触れたように生まれたばかりの赤子も加わった。大人が二人で子どもが三名の数的に不利な状況であるから、それを妻一人に押し付けてしまえるほどに、ぼくは図太くはない。

だから、余計に今回のサポーティングチームが立ち上がったことがうれしいし、、同一の目標に向かって集まってくれた人たちだからこそ、遠隔にいながらも依頼できる部分を依頼し、お礼を述べることを繰り返すことができた。

それを結びつける働きをしてくれたのは、共通語としての『スポーツ』だったのは言うまでもない。それは言葉だけでなく、場所としても機能するのだ。

わかっていた。わかっていたけれど、それを身をもって知る機会に恵まれるとは思っていなかった。

改めて、参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

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地方に住む「普通の人」であるぼくが、ある業界の大物に何気ないツイートで絡んだところから、イベントを企画・実施するところまでを追ったちょっと…

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