『自分を養うことと、ちゃんと食わせること』というお話
以前から読んでいて記事にもさせていただいた佐々木俊尚さんと糸井重里さんの対談記事『はたらくということについてかんがえる』。
もうメチャクチャです。メチャクチャにぼくは満たされています。
度々、この対談について記事にするたびに記載してますが、こんなにもことばの持つ素晴らしさや楽しさを感じられる対談はあまり経験がありません。
今回のタイトルにさせていただいている『自分を養うことと、ちゃんと食わせること』は、ほぼ日サイトの対談ディレクトリ内のタイトルを丸パクリになっています。
どうしようもないぐらいに惹かれたし、刺さったことばだったのでぼくもタイトルにさせていただきました。
※問題があれば変更します。関係者を始め、これをお読みの方からでも法律的な問題等をご指摘頂いた場合には対応させていただきます。
次の時代の日本が目指すべき道が見えないという質問者に対して答える二人の返答内容を引用させていただきます。
(佐々木)
壮大な質問ですね。
どういう世界になっていくのかについては、ぼくは自分でも本を書いていますが、明確にビジョンとして持っています。
これからは「分散」の時代だと思います。
20世紀は大きな改革の時代だったから、21世紀は、その権力がどんどん分散して、ネットワーク化されていく時代だろうと。
いままでのように広場に集まって民主主義やるみたいな感じはなく、それこそ、フェイスブックの人間関係みたいに網の目のように広がっていくと思います。
ヒエラルキー的なものが終わって、ネットワーク的なものに移行していって、その中に力が分散していく社会をイメージしているし、そういうふうになるように自分も努力していると思います。
(糸井)
その分野については、みんなが為政者のように考える必要はないと思っています。
つまり、あなたがたは王様でも総理大臣でもないんだから、自前の何かをまず見つけるべきだと思います。
いまの時代って、自分が言ったことは世界中に通用しないとダメ、みたいな話を、意見同士をぶつけ合うじゃないですか。
あんなことをしてたら忙しいですよね。
大事なのは、まず自分を養うことと、ちゃんと食わせることだと思います。
それはエゴでも何でもなくて、当たり前ですよね。
税金も払ってるんだから、社会に参加してるんです。
それじゃだめだと言う人もいるけど、ぼくは、安心してしょうもないことを考えたほうがいいと思います。
佐々木さんの分散化ということにも納得できるし、その行きつく先が糸井さんの『自分を養うことと、ちゃんと食わせること』だとぼくは強く感じたし、そうであるべきだとも。
以前、この対談の中から着想を得た『目標が高いことはいいことなのか、というお話』でも触れているように、高すぎる目標設定はその人がその人でなくなってしまう可能性をはらんでいるもので、到達できないことに責任が取れない上に自らの足元すらおぼつかない状況になってしまいます。
結果として、その人は目指していた業界なり、組織なり、関係者から迫害とはいわずとも、弾かれてしまってもおかしくない状況に追い込まれ、下手をすれば世捨て人になりかねません。
しかし、世捨て人になるわけには生きませんから、次の目標を掲げて生きるわけです。以前よりも低いかもしれませんが、同等かもしれませんし、状況や環境によっては以前よりも高い目標になっているかもしれません。
いずれにしても、高い目標設定を行ってしまうことは自らの生活を乱すことにつながってしまい、ここでいう『自分を養うことと、ちゃんと食わせること』という意味では破綻してしまいます。
それでは充実感が得られないかもしれません。
平々凡々と生きましょう、ということではなく、自分自身について深く考える機会を設けましょうということだと思うんですよね。
これはぼくもひたすらに苦手な部分なのですが、自分の強みとか得意なこととか好きなこととかを把握しましょう、と。
なぜ、以前記事にしたのですがぼくは考えることが苦手です。横に広がることに関しては、それなりに考えることができるのですが、縦に深みを持った考えをしていくことは苦手なんだよなぁ...なんて思ってます。
だから、自分の好きなこととか、得意なこととかを考えるのも同様に苦手分野です。自分の強みなんてもってのほか。あるとは思えませんし、あるのであればぼく自身が知りたいと思う部分です。
だからでしょうね。
今回の対談を読み、こうやって記事にしているのも、自分自身について深く考えられるようになりたいという気持ちはもちろんですが、それは別にぼくだけの悩みではないというのを感じているからであって、他の人も悩んでるんじゃないかなぁ、なんて思うことがきっかけです。
こんな風に記事を読むこともできれば、普段の生活を知ることもできるようになった現代で、ぼくたちは自分ではない人のことがよく見えるようになりました。
Twitterではいろんな人が同じ時間に全く異なることを考えて発言することの壮大さに、Facebookは顔が見えないことが当然だったネットの世界に顔を出すことの意義に、それぞれ革新性を感じました。
SNSの隆盛は、自分の生活を可視化させるような方向になってきていて、今後もその流れはとめられないでしょうし、止める手立てを誰も持っていません。
だから自分のことを正確に伝えられる必要があるし、伝えたいと考えます。
普通の人が生活の中で感じることや疑問に思うことを、ことばにすること、それを共有することの楽しさを感じるのは、友人や家族が増える感覚っていうんでしょうか。
顔が見える対象が増えるという意味です。
ぼくは自分の顔を他の人が見える世界を作ることができた時、その世界が広がっていく様子を見た時に充足感を感じることができています。
別にすごいことをやろうとは思っていないし、できるともおもっていませんが、できることはやりたいと思っています。
そのできることは誰かのためになるのかもしれないという一縷の望みを抱きながら、少しでも前向きにバカにされても愚直なまでに繰り返すことで、つながりの弱い誰かのためになるのかもしれないと真剣です。
自分を養うこと。ちゃんと食わせること。
社会の中で一定の価値を自分に与えること。
それを実感したときに、いまよりも充実した時間を過ごせるようになるのかもしれませんし、それがいまの希望です。