見出し画像

日本社会は"体育会"が好きだけど

橘玲さんがこんな記事を書いていた。

ヘッドハンティングを生業にしている人から聞いた話として始まるのですが、日本の企業はそもそも体育会系人材が好きで好きでたまらない状況であり、その理由は組織風土に適合する人が多いからだそう。

ヘッドハンターが日本企業の経営者や人事部長に「なぜ運動部出身者がいいのか」と訊くと、そのこたえは常に同じで、「組織の文化に合っている」からだそうです。彼らが求めているのは、権力に対して従順で、先輩・後輩の序列を重んじ、「右を向いてろ」といわれたらずっと右を向いて立っているような人材なのです。なぜなら、自分自身がそうだから。

右向け右で左を向く人間が体育会系人材にはいないし、そういう人間は扱いやすく汲みやすいから、ヘッドハント条件として「体育会出身者」は厚遇を受けられる属性だというのです。

つまり、立場が上の人間が黙っていても「忖度」した上で行動し、立場が上の人間が喜ぶ結果をなんとか出そうと「努力」する人材こそ、日本の企業風土にあっていると。

ん〜、なんとも...

しかし、外資系企業が全く興味を示さない体育会属性を持つ人材は日系企業には大ウケというところがハイライト。

この認識が日本全体の認識で、そこでウケることが企業としても個人としても望むことになってしまっているということです。それを橘さんは「運動部カルト」として、それは日本の社会そのものだと述べます。

これはまさに「運動部カルト」で、ここまで極端な例は多くないとは思いますが、体育会の体質はどこも似たようなものでしょう。そしてこれは日本企業の体質であり、日本社会の体質でもあります。
今回の事件にみんな憤激していますが、カルトが生まれるのはそれを容認する土壌があるからです。日本人は「体育会」が大好きなのです。
当たり前の話ですが、根性と気合と浪花節では冷徹で合理的な経営をするグローバル企業に太刀打ちできるはずはありません。

この文章に反論ができるかといえば、僕はできなくて。
なぜなら、そういう日本の社会的な、もっといえばウェットな環境を見てきましたし、そこで合理的な判断などということは決して認められません。

合理的な判断をしたあとで感情を考察することは存分にすべきですが、感情を先に考察した後に合理的な判断などできるはずがありません。しかし、それをなんとかやりきろうとするのが旧来的な日本企業です。

よくいえば人道的であり、悪くいえば感情に引っ張られる組織

社内での派閥(感情)争いを優先させる企業風土を持つ組織は決して少なくないでしょう。

しかし、まずはサービスの対象が誰で、自分たちのサービスに対して、顧客が"本質的に何を求めているのか"をきちんと明確にすべきなのに、社内政治に忙しくなってしまいます。

というのも、社内での感情争いが入ってしまうと、本質的なサービスを追求する姿勢を求めるのではなく、忖度と感情争いに明け暮れたガラパゴスおじさんたちの群となります。

ある飲食店に二人の社員がいたとします。

Aは接客態度も丁寧で、店舗が求める基準の技量がありますが、店舗マネジャーのマネジメントに対して不満を持っており、何度も衝突しています。

一方のB。接客も丁寧で店舗が求める技術基準もAと同様、クリアしていることに加え、店舗マネジャーからの指示にもマネジャーの意図を汲んだ行動ができるため、評価を高めています。

全く同じ実力をもった社員だとしても、どちらが評価を高めるのかといえば、上役に気に入られる行動をとる人間の方が評価を高めるのを我々は身を以て味わっています。

ここで大きな問題は企業理念に沿った行動を取れている人間が評価されるのではなく、あくまでも立場が上にいる存在に"気にいれられる"ことで評価されるということです。

そして、気に入られる行動の最たるものが、言葉にせずとも行動すること、つまり忖度できること。

しかし、その行動はいつしか自らが属する組織の顧客が求めるサービス品質とは大きく乖離する価値観を抱くことにつながりますが、当人たちは外部との価値観の乖離ぶりに気づくことはありません。

そして日大アメフト部の一連の流れのように明るみになって初めて、その価値観の乖離に気づくこととなります。

果たして、僕たちはそんな体育会が好きなのでしょうか。ちなみに僕は嫌いです。


人同士のconnectをするという意味で、各学派(各大学)が相互を意識しながら競争を行う土壌としての体育会こそ、大切にすべき体育会のあるべき姿だと僕は考えています

日本の中でいえば早慶戦が真っ先に思い浮かぶのですが、あぁいった相互に誇りを持って実力を高めるための存在として認め合うことができている関係を作ることこそが体育会の存在意義なのではないでしょうか。

結果的に、同時代を過ごしたライバル同士は卒業した後にも継続していくものでしょうし、その後も顔の見える・思い浮かぶライバル同士が誇りを持ちながら切磋琢磨しあえる土壌を作ることになります。

それが運動部connectであり、その運動部connectを醸成する仕組みこそが体育会でしょう。

筑波大学蹴球部は自らスポンサー獲得に動くプロモーションチームを立ち上げ、必死にスポーツを通じて発信することの価値を訴え続けています。

協賛企業からすれば、相手が何年生かというのはどうでもよくて、「筑波大学蹴球部」という看板を背負ってきた若い人というぐらいです。

ここに内部の体育会的なノリは全く通用しません。こういうことですよね。僕たちが見たい体育会の姿って。

いま、もしかしたら日本は移行期にきているのかもしれませんね。

体育会を根本から見直すというか、そもそも学校とスポーツの関係とか、もっといえば学校のあり方とか、さらに考えれば日本に住む人たちのマインドセットとか。。

キリがありません。

しかし、体育会という言葉をスポーツ界に置き換えてみます。スポーツが好きな人がいて、その人たちが個人間で繋がり、ワクワクする取り組みが自発的に起こるようになれば日本は楽しくなります

そんな魅力的な体育会のあり方を提示していきたいなぁ、と密かに思う33歳です。


いいなと思ったら応援しよう!

ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!