他人へ軽々に「共感」できると思うな
枕にかえて
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
SNSが市民権を得てから久しくなるが、その中で随分と「共感」について記載される機会が増えるのと同時に「共感の価値」を説く記事や投稿が散見されるようになったのはここで書くまでもないだろう。
ひいては共感を主体的に行う生活者のことを「ファン」とし、企業は特定の趣味や嗜好・関心を抱く生活者向けの販促認知に関わる営業全般をファンマーケティングと呼称するに至っている。
しかし、果たして「共感」を多くの人がそれほど容易くできるものなのか。それほど安易に他人へ共感できるものなのか。誰もが述べては自らをファンと自称するためのチケットとして利用していいものなのか。
そんな違和感から生じた疑問を書いていくこととする。
▶︎ “共感”は誰にでも許されたものではない
はじめに、「共感」の定義を揃えておきたい。以下、Wikipediaにて説明されている「共感」の意味だ。
「感」が使われている以上、感情のことを指すことは想像に難くなかっただろうし、ここで記載されている定義に反証したくなる人も多くはないだろう。
自分の感情が他人のそれと酷似している、もしくは同等程度に上下している様子を示す言葉として使われる。たとえば、友人がつらい表情をしている場合、相手が「つらい思いをしている」ことを分かるだけでなく、自身の感情にもそれが反映される事象のことだ。
しかし、この例えで言えば文面からではなく相手の表情や姿勢、態度など非常に多くの情報から導き出されているものであり、決して文面だけで判断できるものではない。もしかしたら、その文面は「装われている」可能性すらある。
仮に装われた文章を目にしたとして、それを「ウソではない」「真実である」とどうすれば見抜けるのか。見抜けるのだとしたら、それは誰にも再現性のあるものなのか。いくら人間に備わっている本能的な機能であるとしても、平易に誰でも利用できるものではない非常に高度な機能だ。
このことから「共感」とは誰にでも手渡される便利な友情や親近感を養うためのチケットではないといえるのではないか。
▷ 共感を軽々に使用していい人間などいない
時として承認欲求を得たい人間が自身の承認欲求を満たすことに「共感を生み出す」と説明することがある。
しかし、それはその人物が自らの承認欲求を満たす為に行う自慰的な行為であり、能動的に仕掛けている扇動的な態度だ。そこに「共感」という本能的な機能で感情的な事象を同義づけしていいのか。
僕は決してそうは思わない。むしろ、そのように「共感」を軽々に使用する人間を簡単に信用していいとも思わない。
共感とはそれほどまでに尊いものであり、そこかしこで簡単になんの感情も抜きにして書かれていいものではないと考えている。
上記しているように書き込む人間の「承認欲求」と切り離して考えなければならないものだと考えているからで、個人の俗的な欲求を満たすための手段として利用されることと、個々人の大切な情動的な微細な揺らぎを混同していいはずがない。
だからこそ、共感を軽々に使用し自身の承認欲求を満たす、もしくは他人の承認欲求を満たすことに協力的な態度をとる存在を許していいとは思えない。
共感の語句に向けられる重責を自覚するからこそ、そこに生じる他人の感情を揺さぶるような情報の発信に価値が生じ、誰でもコンビニで買えてしまうような情動の押し売りが簡単に跋扈する状態を許容すべきではないはずだ。
共感の価値や利用責任の重さを自覚しているからこそ、ただの言葉から情動的な行為や感情的な同調に信頼感が生じるのだ。
▷ “共感”を得られる人物は誰か
では、その共感を得られる存在とはどんな人物なのか。
世の中には反社会性パーソナリティ障害やサイコパスといった他人の感情にまったく興味関心を持てない特性を持つ者も存在する。これらの特性に共通するのが「共感性の欠如」であると言われる。
つまり、誰かが眼前で喜怒哀楽を爆発させていたとしても自らに「まったく関係のないことであるとすら認識しない」のだ。あくまでもそこにあるのは「眼前の人物が感情的になっている」という事実認識だけであり、そこに自身の感情を投影させるようなことは一切ない。
そもそも共感性とは言語化が難しいものだ。
たとえば、あなたが子どもの頃にどんな状況でも構わないが、よく遊ぶ人物に友情や親近感を抱いた場面を想起してほしい。なぜ、あなたはその人物に友情や親近感を抱くに至ったのか。
おそらく回答が難しいだろう。
「なんとなく」といった非常に曖昧でいい加減な表現しかできないのではないか。それが共感だから仕方がない。それ以上でもそれ以下でもない。善し悪しではなく「そういうものである」と認識すればいいだろう。
反社会性パーソナリティ障害やサイコパスといった特性を持つ人たち、特にサイコパスは他人に対して冷淡で共感することがないため、衝動的な行動を取ることが多いような印象を受ける。
一般的には、彼らのとった行動や発する言動に向けて「不快感」や「不満感」を抱くことが多いだろう。しかし、それについても言語化することは容易ではない。理由を論じることは自身の中で生じる感情的な揺らぎを丁寧に言説化することであり非常に敷居が高い。
これらを踏まえると、共感であろうが非共感であろうと関係なく自身の感情を発露し言語化することは非常に困難なことがわかる。同時に、他人の感情に揺らぎを与えられる情報を発せられる人物こそが共感を得られる人物であるといえる。
情報の出し方は一様ではない。
文章として表現することが可能な人もいれば、映像を通して受け手に届ける術に長ける人間もいる。そこには人間の感情に対する丁寧な理解が必要だろう。言語化できることもそうだし、他人に理解させるために情報の出し方を制御できる自制心も必要だ。
つまり、共感を得られる人は自らの発したいことを丁寧に言説化することが可能で、(表現の仕方は色々とあるだろうが)特性に合わせて情報の出し方を制御できる人物であるといえる。しかし、それができる人は非常に稀有であると認めざるを得ない。
なぜなら、それらの人たちは「他人がなぜ共感するのか」を言葉で説明することもできるし、そこに至るまでの過程を導き出すこともできるからだ。
▷ せめて自分はそれを理解しておこう
我々はおいそれと共感してはいけないのだろうか。
手始めに自覚することだ。決して他人に共感することも共感してもらうことも容易ではないこと。さらに、他人に共感を強要することが自身の承認欲求を満たすための愚策であり、さもすれば他人を愚弄する態度や行為であることも忘れてはならない。
だからこそ、謙虚に(というと僕如きが非常に傲慢な言い方になってしまうが)あくまでも自身がなぜ発するのか。それを丁寧に説明できるのか。どうして説明通りの思考なのかを理解してから発するべきだ。
共感を生み出そうとしつつ生み出せる人は、等しく言語化ができている人たちばかりだ。
自身の感じた違和感や疑念、喜びや怒りを一つ一つの語句に向けて落とし込む過程を経て発信しているからこそ、他者の情動や感情を揺り動かすことができる術を持ち得る。
そういう人たちと自分自身が同等であると考えることは厚かましい態度である。
ネット空間であろうとリアルなフィジカル空間であろうと、自分自身の言葉や発する情報に責任を持つこと。これ以外にない。ひいては、それをできる人間こそが「共感」という言葉を用いるのに足る人物であると勝手ながらに思う次第だ。
決して他人に共感を強要してもいけないし、共感を得ようと愚かな発信をすべきでもない。あくまでも向き合うのは自分自身の感情であり、その感情や過程認識の言語化である。
それができるようになるために、まずは安易に「共感した」や「共感を生み出す」といった言説を止めることから始めてみよう。今からでも遅くはない。
では、本noteの内容に共感したらシェアしてくれると僕は泣いて喜ぶ。
ではでは。
えんどう
▶︎ おまけ
▷ 紹介したいnote
古賀史健さんは「理解と共感はぜんぜんちがう」と書いている。読み手によっては混同しがちな内容だが、理解は俯瞰的なものの見方でありサイコパス的な立ち位置から他人の情報を読み取る態度だ。これを混同しているうちは共感を安易に使用することは避けなければならないだろう。
時として「共感しました」とか「気持ちわかります」などと平然と述べてくれる人がいる。いや、わかるはずがないだろう。なぜなら、僕とあなたとでは境遇も状況もまったく異なるのだ。結局、ここでも理解と共感の間がポッカリと空いてしまっていることを指摘している。
「共感を得ることは手段であって目的ではない」最近の販促活動を指してファンマーケティングだと上っ面だけで述べるような人たちに届いてほしい言葉だ。共感を得て購買活動に向かうのではない。なんだか、生活者を愚弄するような言い方になっていないのかを気にしてほしいとも願うばかりだ。
▷ 本noteに関連する紹介したい書籍
「共感」という言葉を利用して販促活動に活かしたい人たちは、せめて佐藤尚之さんが著者である本書籍を読んでからにすべきだ。共感から熱狂なんて具合に読み進んでいくが、この教官が生み出される源泉とはどこにあるのかをきちんと説明してくれる。
▷ 著者のTwitterアカウント
僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。