#えんどうnote 『ねぇ、神さまってさ』 #417日目
こないだ、そう、こないだ。先日のことだ。
#我が家の長男 (5歳)から、ふとしたタイミングでこう聞かれた。
「ねぇ、神ってさ、神さまってことだよね。えらいの。」
さて、これをお読みの皆さんはどうお答えになりますか。はたまた、お子さんと生活をされている、もしくは生活をされていた方はどんなふうに答えてきましたか。
今回はこれ、つまり「神さまを子どもに対してどう説明するのか」について書いてみます。
コンテンツに触れる中でそれとなく認識
そもそも長男が神さまの存在を意識して質問してきた背景にあるのは、映像コンテンツの影響で、僕と共にAmazonプライムビデオで『神撃のバハムート』を観ていたのも影響があるだろうし、『鬼滅の刃』を観ていたのもそうだろうし、『どろろ』を観ていたのも影響していると思う。他にも彼とたくさんのコンテンツを見ている。
これらのコンテンツに共通しているのは、現実に見たこともなければ、存在を知覚する機会もない空想上の存在である鬼や神、悪魔を登場させている点にあって、描かれている悪魔や鬼は非常に禍々しく、簡単に言ってしまえば怖い存在だ。
では、神がキレイで優しい存在なのかといえば、神撃のバハムートに出てくる神たちは自分たちの利益のために悪魔を潰そうとしたり、それと同時に自分たちの威信を踏みにじった人間も討伐してしまうことやむなしと言った態度であったため、それぞれに利己的な判断をするどうしようもない存在だとしか言えない。
ただ、他の作品なども多く見ている我が家の長男は、他の作品で「崇められている存在」である神を見る機会も少なくはないうえに、現実世界に存在する大人たちは「神さま」をステキな存在だとして認識し、発言しているのを目の当たりにしているのもあり、そちらへ靡(なび)いているようだ。
誰が生み出したのか
上でも書いてきたが、鬼であれ、人間であれ、神であれ、それぞれの利益がある以上は、相互の利益が相反するものであれば対立もするし、合致するのであれば協力をする。
映像を始め、小説や漫画もそうだが、コンテンツの中でそれを描いている以上、それを生み出している創造主、つまり著者は世界を生み出しているのだと理解すると神になりえるのだと思うが、今回その話をするのはやめておこうかな...はは。
ただ、ここで「コンテンツの生みの親は人間である」点に注目すると、一つの結論にたどり着く。あらゆるコンテンツが人間が人間のためにつくっていて、読まれる、聞かれる、見られるといった行為を望む前提で創作されている。
何が言いたいのかといえば、あらゆる宗教を軽んじるわけではないのだけれど、世界の中で神さまを語る経典や聖書をつくったのが人である以上、神は人がつくったのだと言わざるを得ない、と僕は考えている。もっと適切にいえば、そう考えざるを得ない。
神さまが大層な存在であるのだとしたら、それを生み出した人物はもっと大層な人物だろう。だって、神さまを生み出しちゃったんだから。
僕から息子への回答
ここで僕が回答した内容は以下だ。
別に偉くないよ。君や僕と一緒で、お腹も空くし、寝たり、お話したり、たまに喧嘩したりするんだ。だから、一緒でしょ。
これ以外に回答のしようが無かったといえばなかったし、これ以外の回答をする気にもならなかった。
繰り返しになるけれど、世界にある宗教を軽んじているわけではない。だけど、僕には「神」の存在よりも大切にしたいと思える存在があるだけで、祈りを捧げている暇があれば、自分の頭で考えていたいし、自分の手や足を動かしていたい。
祈りを捧げるだけで体重が5kgも減るわけではないし、聴く人を虜にできるプレゼンをできるようになるわけでもない。
自分がやらなければならない領分を「神さま」にすがったところで、その神さまが救ってくれるのだとしたら、祈りを捧げるだけの価値があるのかもしれないが、あらゆる天災は急に起こるし、事故には突発的に出くわしてしまう。
もし、それらも神さまの思し召しだというのであれば、あまりにも無慈悲で過酷だ。仮にそれを神さまが「仕事」の一環として取り組んでいるのであれば、一々それらに心を痛めているわけでもなさそうだし、心を痛めるような人は人間で言うところのうつ病などの精神疾患を患ってしまいそうなものだ。
そんな風に考えるのが人間風情が考えられる限界なのかもしれないが、いずれにしても、自分で制御できる部分を自分で考え、行動し、生きていく。それでいいのだと思うし、それ以外にないのだと思う。
僕はそこに「神さまが介在する余白」を持ち合わせていない。
だから息子である長男にも、同じ様に言ったし、今後も似たような質問があれば同じ様に答えるだろう。仮に彼が、神さまにすがりつきたいと思うに至るのであれば、別にそれはそれでいいとは思うし、特に止めもしないだろうと思う。
そこまでにきちんと自分の頭で考え、折れずに、ブレずに導き出した自分が進むべき「いま」なのだと判断したのであれば、家族とはいえ他人である僕の出る幕はない。
おわりに
創造主たるコンテンツ制作者が生み出した「神さま」も創造主が異なれば、面白おかしく親しみの湧くキャラクターになる。
勇者ヨシヒコに出てくる佐藤二朗扮する「仏」もその一人だし、さとうみつろうの描く神さまとのおしゃべりにでてくる神もそう。
あんまり深く考えず、コンテンツのキャラクターだと思えば、「せっかく祈ったのに!」と憤慨する機会も減るだろうし、「どうかお願い、神さま!」と下手に期待する機会も減るだろう。
だって、バカボンのパパに「明日のテストで80点取らせて!」とお願いするのかといえば、確実にしないだろうし、その願いを叶えてくれるわけもないのは一目瞭然だ。
息子よ、僕はそんな風に考えているのだ。