"父親の自覚"というお話
ふと、奥さんからこんなことを聞かれました。
「父親ってさ、親の自覚ある?あるっていうか、もてるものなの?」
それについてぼくがした回答を書いていきたいと思います。
ぼくは彼女の質問に対してハッキリと「ない」と答えました。
ここから先はすごく表現がむずかしく、ぼくの文章表現で伝えられるのかどうかは微妙すぎるのですが、この話を振ってきてくれた奥さんも理解をしてくれていることですので書き連ねていきます。
父親の自覚がないというのは正確にいうと、自覚がないというよりは、父親としての自覚というものの正体がまったくわからないということ。
おそらく、これに気づいている父親はそれほど多くないんじゃないかと思うんですが、どうでしょう。だって父親の自覚というものがなにを指すのかが実感値としてわからないんです。
まずはその実感値についてですが、母親はその体にこれから産む子どもを細胞レベルから受け入れることができます。10ヶ月ものあいだ生活をともにし、出産時には壮絶な痛みを伴った末に子どもをこの世に産み落とします。
その10ヶ月以前にも月経を迎え、子どもを授かれるよう準備するわけですが、子どもを産むまでに長い時間をかけ、からだの変化を実感しながら過ごすわけです。
出産時にも、特に問題が起こらなければ普通分娩を選択するでしょうが、遺伝子の上での父親は分娩中の痛みを感じることはおろか、出てくる瞬間に産道を通る体内的な触覚を得ることも不可能です。
また、無事に世に出てきてくれた子に対して授乳することも叶いませんし、おっぱいが痛いだなんて感じることもありません。
これらを踏まえると、父親と母親のあいだには肉体的な実感値が大きく異なることが明確です。つまり、父親には肉体的な父親としての自覚が刻まれないことを意味し、肉体的な実感が得られないことが確定します。
肉体的な自覚が得られないのであれば、精神性とでもいうんでしょうか。心構えみたいなものは自覚として持つことはできそうなものですが、それはどうでしょう。
結局は肉体的な負担を強いられた母親の親としての自覚に比べると、圧倒的に足りないことになりますが、精神的な心構えという点においては同時にスタートですから差がないはずです。
しかし、現時点でぼくが抱いているのは役割として父親を演じているだけなのではないかということ。自然派性的に生まれる父親としての自覚というのは感じられません。
昭和的なちゃぶ台をひっくり返す短気な古臭いイメージの父親像もあれば、優しく包み込むようなイクメンといわれるような父親像もあり、その姿は人それぞれの思い描く数だけ存在するでしょう。
しかし、それも結局は子どもから引き出された感情を発現させているだけの行為レベルです。根本的な心構えである父親としての自覚まで到達はできません。
働きお金を家に持ってくることは父親の自覚がなすことなのかといえば、全く違うでしょう。生活をする上でお金は必要なものではありますが、そのためだけに父親が存在するわけではありません。
子どもへの躾という意味で父親の存在は不可欠なのでしょうか。それも不可欠とは言いがたい。母親だけでも(大変だとは思いますが)代替は可能ですし、母親以外の大人が担うことが可能。
おそらく、いわゆる父親に求められるものであろう、どんな態度ふるまいを取ったところで父親の自覚が必要なものは見当たりません。
ここまでくると、父親の存在意義について考えることはやめたほうがいいのかもしれませんが、ぼくをはじめとした父親というポジションに立っている人たちは、よく考えるべきだとは思います。
果たして自分が思い描いている父親の自覚はなにから着想し、それがどんな態度に結びついているのか。
繰り返しになりますが、残念ながらぼくには父親の自覚なんていう大層なものはありませんし、その身につけ方もわかりません。
ただ、子どもたちとの生活を送る中で引き出される感情は素直に嬉しくて喜ばしいものだと強く感じています。
また、彼らから“父親の役割”を求められるから演じているということは自覚していますし、それを誇らしくも感じます。
先日、ぼくは目標設定について記事を書きました。その内容は足元を見つめ、自分の身の丈にあった目標設定をすべきだということ。
あまりにも高すぎる目標は、結局周りのひとや環境に依存することになり、なにひとつ達成できなくなります。
それでいうと、ぼくは立派な威厳のあるかっこいい父親なんて目指してませんし、なりたいとも思ってません。ただ、素直に彼らに対して向き合える人間でいたいとは思っています。
ぼくは周りからみたら彼らの父親であるかもしれませんが、家の中では近しい友人でしかありません。
彼らも保育園や親族などから「父親」というものでみられるため、ぼくのことを「父親」だという目で見ようとしていますが、それは本質的ではないと思っています。
彼らに対し、世間だとか雰囲気だとか関係なく、まっすぐに向き合った意見をいえる最も近くで生活する友人として意見していきたいと思いますし、それが自覚なのかもしれません。
そして、これからも自分たちが楽しめるようにしていきたいと思います。