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尊重されることをしていたい、尊敬はされなくても。

「自分の推薦文を書いて欲しい」と、誰かにお願いをしたとして、どんな風に書いて欲しいと思うんでしょうね。

逆に、自分がお願いされたとして、その相手に対してどんな風に書いてあげたいと思うんでしょう。

「自分で自分のことを推薦してみろ!」なんて言われた時は、なんて書きましょうか。

人にお願いする以上は、「どんな風に書いて欲しい」と伝えることはできるかもしれないけど、それをくみとった文章になるのかどうかの決定権は自分にはありません。

誰かの人物像を文章で伝える、というのは難しいことです。

容姿や背丈に体型、表情やクセはもちろん、言葉づかいなど、その人を形づくるものは1つではありません。けど、それらを全て盛り込んでしまうと情報が入りすぎてしまいます。

推薦文という形式である以上、その人が「どんな人」なのかを端的、かつ的確に表現しながら、「オススメできるところ」を書くわけですから、容易なことではありません。

オススメできる、ということはオススメした以上は...ということです。

隣にいる誰かのことを書けるようになるのは難しいですが、スラスラとまでは行かなくとも書けるようになることは、人のことをよく見ているということが言えるのではないかなぁ、と思うんですね。

なんだか、それってステキなことですよ。人には良いところも悪いところも、あるでしょう。

その基準は、それぞれの好き嫌いで良し悪しが決まると言っていいかもしれませんが。

「あの人のこういうところ、よくないよね」なんて言ってる時には、だいたい、自分が嫌いだと思うところというか、その人が嫌いだと思ってしまう行動をとっていることが要因です。

それが塵みたいに積もっちゃった結果、その人のことを嫌いになってしまう人もいるでしょう。

嫌いになる、というのは、とてもはやくて、つよい感情だから、止めることがむずかしくて、ハッとするような機会がないと「あいつを嫌いな自分」がドンドン前に出てきます。

だから、というわけではないんですが、よい言葉があります。

尊重尊いものとして大切に扱うこと。

尊敬は、人に対して使われることばですが、尊重は人以外にも使われます。意見を、立場を、プライベートを、など、行為や行動に対しても使えるんです。

相手のことを好きになれなくても、相手のする行為や行動を大切に思うことはできる、ともいえるわけです。つまり、尊敬はできなくても尊重はできるんですよね。

話を戻して、推薦文。

誰かのことを書こうにも、誰かに書かれるにしても、大切にしたいし、大切にしていきたいと考えているのが「尊重すること」です。

もちろん、尊重の先になるのか後になるのかはわかりませんが、尊敬ができる人にはしますし、そこまで行けば、すごくいい関係ですよね。

けど、尊敬や尊重は相手に求めるものではないでしょうね。わかりませんけど、きっとそうなんだと思います。

「おまえは俺を尊敬しろ!」なんていったところで、誰が尊敬してくれるんでしょう。尊重もそうです。

どういうことかといえば、尊敬も尊重も、相手が受け取ることなんだろうってこと。

ぼくがつよく意識してるのは、相手のどんなところに魅力があるのか、尊重できるところはどこなのかを丁寧に探すことです。

だから、というわけではないのですが、ぼくは人から尊重されるような行動をとりたいし、とっていきたい。わざとらしく、というのではなく、自然と、そう自然とできるようでいたい。

尊敬してほしいとは思わないけど、尊重されるような行動を取れる人物でいたいとは思うわけです。

推薦文、という形で人にお願いをするとしたら、尊重できない部分も含めて書いてもらいたいと思うわけです。

だからこそ、読もうとする人に伝わるものだと思うし、ぼくが読み手側だとしたら、そうやって人間くさいところ(尊重できないところ)も含めての推薦なのだとしたら、「いい関係なんだなぁ」なんて思えます。

だから、尊重されるような、大したことができなくても、隣にいる人だったり、目の前にいる人から、「こういうところ、いいな」なんて思ってもらえるような行動をとっていきたいですね。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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