頼もしくて寂しい
ここ最近、長男が次男や三男に対して“兄らしく”なってきた。
ぼくは『お兄ちゃんなんだから』なんて昭和の大人たちみたいな言い方をしたくもなければ、それを自然と考えてしまう人間ではいたくないと考えていることもあり、次男や三男が家族として加わってきたとして、彼にそんな風に声をかけたことは一度もない。
むしろ、“昭和の大人たち”が、長男に対して「もうお兄さんなんだから」みたいな言い方をする度に嫌悪感を抱いていたぐらい。
なぜ嫌悪感を抱くのかといえば、その言い方と態度は『彼をみていないから』に他ならない。
「お兄さんなんだから」「お姉さんなんだから」「父親なんだから」「母親なんだから」
これらの投げかけは呪いだとすら思っている。
自覚を促す言葉ではなく、ポジションに縛ろうとする無意識にかける呪いであり、それに縛られた側は縛られていると自覚することにはなるが、相手が望む本来的な意味での“兄としての自覚”ではなく、周りが望むであろう“兄らしい行動をとる自覚”が芽生えることを促す。
本人は望んでもないポジションを、周りが勝手に“らしさ”を求めるが故に縛ろうとする。
大切なのは本人がどう対峙するかであり、その意思のあり方を、態度を、姿勢を、それぞれきちんと受け取り、認めることだ。
「たまにしか会わないからいいだろう」なんて事は一切ない。接触時間が短いからといって、かける言葉に責任が伴わなくて良いなんてことはない。
他の人格を持つ人物に対してかける言葉にはすべからく責任が伴い、言葉をかける以上は当事者だ。その態度、振る舞い、姿勢すべてにおいて、責任が内在される。
「お兄さんなんだから」をはじめとしたポジションだけをみた言葉の投げかけには、その責任を放棄するような姿勢が透けてみえるし、何よりも相手への思いやりが感じられない冷たい言葉だ。
だからぼくは我が家の長男である彼に対し、そんな言葉をかけたこともなければ、かけようと思ったこともなかったし、恐らく今後もないだろう。
だからこそ、次男や三男に対してみせる“兄らしさ”をみせる彼に対して頼もしさを感じるとともに、若干の寂しさも感じる。
「あぁ、そうしたいんだね。」
「それでいいんだね。」
「君の思う兄らしい姿が、それなんだね。」
どんなに背伸びをしたところで、背伸びをさせるようなポジションに彼を求めたところで、彼が彼であることに違いはない。
失敗してもできたところを見て、励ます。
成功したら、その過程でよかったところを認め、継続していけるよう次の指針を共に考える。
そこに兄らしさや男らしさを求める必要はない。
成功と失敗の二元論になるのは少し乱暴だけれど、その間に「らしさ」があるのであれば、「彼らしさ」しかない。
だから今日も、明日も、その次の日も、彼のらしいところを目一杯受け止めたい。少しでも多くの彼らしいところを見つけて、共有して、ドンドン広がっていく様子を見ていきたい。
それが期間限定でぼくや妻に提供してくれる最高の贅沢な嗜好時間だと思っているから。
だから、頼もしいと共に寂しい気持ちにもなるのか。
そんなことにも気づけたのは彼らがいるから、か。
今日もお読みいただきありがとうございます。子どもに抜かれる瞬間を楽しみにしていたのですが、あっという間ですね。
ぼく:遠藤 涼介/Endo-san (@ryosuke_endo)
#スポみら (元 #スポーツの未来に僕たちができること )オーガナイザー。 第一弾、新潟経営大学イベントの資金調達を目的に行ったクラウドファンディングは3サイトで募集し、すべて目標達成(総合達成率140%)#新潟 を #許容度の高い エリアにすべく活動
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