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インターネット的な世界に恵まれて

インターネット的という世界

インターネットというのはツール。そのツールの先にある世界を糸井重里さんは「インターネット的」だと表現していて、なるほど、と膝を打った。

この本は2001年に書かれたものにさらに加筆されて2014年に文庫化されたもので、時を経ても全く色褪せることがなく、いまだからこそ読むことで大きな理解と納得が得られるものになる本だと思います。

インターネット的、という言葉はわかるようでわからないのかもしれませんが、糸井さんは本書の中で「自動車と道路のセット」がインターネット、「モータリゼーション」がインターネット的だと述べています。

モータリゼーションの説明を本書内から引用したのが以下です。

モータリゼーションという言葉は、自動車が発明され、社会に広く浸透していくようになってから変化していったことのすべてを含みます。自動車があると車庫が必要になるし、さまざまなニーズや市場もどんどん出てきます。荷物の運び方が変わる、旅館も変わる、人の遊び方も変わる、デートの仕方も変わる、お金の使い方も変わる...。自動車の出現によって、それにまつわるモータリゼーションという世界がぐんぐんひらけていったわけです。

自動車の出現によって、移動だとか物流だとか遊びの部分にまで広く浸透することによって、経済的にも規模化していく様相をモータリゼーションという言い方で説明されていますし、それがインターネットなら何かと言えば「インターネット的」であるということです。

インターネットを介して行われる能動的なインタラクティブな行き交いが生じて、そこから経済的な意味においても規模化していくことを説明する際の言葉とし使用できますが、自動車と異なることは"モノ"があるわけではないという点。

モノがない代わりに、情報を伝える仕組みという形で、概念(捉え方、意味内容、特徴)として我々の生活に浸透しています。

Twitterは知ってるけど、インターネットは知らない、というのはすごくインターネット的な表現というか事象だと思います。

簡単に説明してしまうと、Twitterでいえば、インターネットという情報を伝える仕組み、つまり場所があって、その上でTwitterというお店に入り、そのお店の中で他の人たちとやりとりしているということになります。

そのお店の中からFacebooというお店に入ってる人たちと直接「やりとり」することはできませんが、自分自身がFacebookというお店に入ることは可能なので、お店の中に入ってる人たちと「やりとり」することができます。

そのお店の中でやりとりすることはもちろんですが、現実社会、つまりオフラインでも直接顔を見合わせた状態で「やりとり」をすることは可能。もっといえば、物理的な距離に縛られない分、自身の生活を拡張させることにもなります。

拡張現実という名称での技術が広く謳われるようになって久しいですが、インターネットこそが交友関係をはじめとした生活を拡張させてくれるモノだということが言えます。

インターネット的な世界にあるのはコロニー

僕としては、インターネット的な世界にあるお店にはドンドンと入っていき、それぞれのお店の雰囲気や料理の味をしっかりと確認することが大切だと思っています。

例えば、TwitterをはじめとしたSNSと呼ばれるお店の集まる場所、コロニーとでも言えますが、その場所に入ってもいないのに「危険だ」「よくない噂を耳にする」なんていう風に構えてしまうことは、すごくもったいないことなのではないかと思うわけです。

そのコロニーに入ってみたら、そこにあるのはお店で、お店にはそれぞれのルールが設けられています。そのルールの中でお客さんたちが思うように「やりとり」をしているだけなのです。

代表的なルールの中は、文字数の制限(140文字)や写真とコメントだけでのやり取り、顔写真をプロフィールに載せることなどがありますが、そのルールを変えようとは誰も思っていません。

ましてや、そのルールがおかしい、と訴える人もいません。

中には、そのルールの中でやることで不利益を被ってしまった人もいるのは確かですが、それは我々が普段生活する中でだって同じことが言えるでしょう。

会社に行く時間が少し予定していたよりも遅くなったがために、車を運転する際に速度超過して会社に向かいます。その途中で警察に止められてしまい、切符を切られる...。

そんなことは自動車を運転している人であれば、誰にだって可能性があるわけです。

けど、だからといって自動車に乗ることを拒否する人は多くはありません。それ以上に得ること、車に乗ることで移動時間の短縮という利益を得ることができることを知っているからだし、それを捨てようとはおもわないからです。

だから、誰かが事故を起こしたということに「気をつけよう」とは思っても、「やめよう」とはなりません。それを周りから強くいったところで、自分の生活を根底から覆すようなことがなければ「やめる」という選択は出てこないでしょう。

それ以上に、お店の中で交わされる「やりとり」に価値があるからです。

もちろん、空気的にやらなければならないと思っている人も中にはいるでしょうし、その人はやめること自体に壁があるというよりも、やめたあとのことを気にしてやめられないのかもしれません。

やりとりができないということは、その人とのコミュニケーション手段が一つ削られることになります。

現代は携帯電話を持っていない人の方が少なく、何かあればその番号にかけることで直接その人に連絡をすることが可能です。

それが今は、非同期型のコミュニケーション手段としてSNSがあり、その中でLINEやFacebookメッセンジャーなどが主流になっているわけですが、多くの人が使えば使うほど、使わない人のメリットが少なくなっていきます。

コロニーに属さないことよりも、そのお店の中に入らない人にとっては不便な状態になるということです。

それが悪いとは思いませんし、そういう人がいてもいいと思いますが、雰囲気を気にする人はいてもたってもいられなくなるのかもしれません。

僕は利益を享受できている

まとめでもなんでもないのですが、僕はインターネット的な世界のなかで生活することができて、非常に満足していますし、そのおかげで救われている部分も多々あります。

生活という意味で言えば、非常に充実しているのはインターネットという場所があるおかげだとも言えるし、SNSというコロニーの中にある複数のお店に出入りすることによって僕の生活が拡張されていることを実感します。

そのおかげで人脈を形成することにも繋がりましたし、結果としてスポーツをきっかけにしたイベントを開催するにまで至りました。

これからも大いに享受をしたいし、何よりも共に生活をする子どもたちに使い方を含めて伝えるためには自分自身がお店に入ってやりとりを重ねないと説得力がありません。

ただ小言だけをいうダサい人になりたいとは思わないので、これからも大切にお店の中でやりとりを重ねていきたいと思います。

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ゑんどう ≒ 遠藤 涼介
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