才能(遺伝)と教育(他者からの機会)と訓練(努力)と
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
教育って大事だと言われます。ボクも大事だとは認識しているのですが、一方で才能や知能(遺伝)なんて具合に先天的なもので片付けられるんじゃ...なんて諦める気持ちも学生当時には抱いていたものです。
子どもとの生活をしていることもあり、それで片付けるわけにはいかなくなりましたので考えている最中です。おそらく、答えは出せないのかもしれませんが、すでに古代ギリシャ人や古代ローマ人が考えてくれてたので、そこからヒントもらった内容を書いてます。
あらゆる行動に結びつく事柄は遺伝する
先日書いたばかりなのですが、根本的にボクは行動遺伝学の「個体差があるところには遺伝がある」とする考え方を前提にしています。
外見や身長体重といった体型にとどまらず、才能や知能も、こころでさえも遺伝の影響があることが科学的に証明されているので、それを否定する気持ちにならないといった方が適切かもしれません。
「"三つ子の魂百まで"というのがから家族の存在こそが大事」だなんて言いたい気持ちは存分に理解できますが、それで困るのが自分と生活をする子どもだとしたら、そんな無責任で納得のできない放言をするわけにはいきません。
教育格差は学習成績に影響を与えるのか
遺伝で片付けるとすると親の学歴や年収が子どもに跳ね返ってくることによって格差が生じると懸念する人も少なくはないでしょう。ボクもそれを心配しました。それによって機会が損なわれるのであれば諦めざるを得ません。
上のnoteでも紹介している日本における行動遺伝学者の第一人者である安藤教授は、共有環境(家族が共有し、家族のメンバーに類似性をもたらす環境)による教育格差は確かに存在するものの、学習成績にはほぼ影響を与えないことを示しています。(気になる方は、ぜひ下のリンクから確認してみてください!)
"塾"や"おけいこ"といった学習環境は共有環境が大いに影響していることを否定することにはなっていません。そこは厳然として「格差はある」という事実に変わりはないということです。
才能に「教育」と「訓練」を
学習成績に差が出るのは遺伝であることがわかりましたし、学習環境の差が影響を与えることの差は微差であることもわかりました。
ところが、それを継続させることによって生じる「習慣」は育まれますし、それを継続する過程の中で、多くの非共有環境(家族で共有せず一人ひとりを独自にさせる環境)に晒されることになりますから、習慣の違いによって生じる差があるだろう、とボクは考え始めたのですが、その辺りは古代ギリシャ人やローマ人が既に考えてました。
古代ギリシャ哲学の始祖といわれるソクラテスの言葉をプラトンが紹介しているのですが、ソクラテスは「なにも教育や訓練をしていない人間は、いくら才能を持っていたとしても周囲から必要とされる基準までたどり着ける訳がない。それほどまでに才能は万能ではない。」と看破しています。
また、ギリシャ哲学の西洋社会への案内人とされる古代ローマ人キケロも才能に教育と訓練との必要性を説いてます。
教育とは「他者が与える機会」であり、訓練とは「自ら行う努力」だとして考えると、知能や才能が遺伝から受ける影響があるのは厳然たる事実であるものの、それを使いこなせるようにするためには不可欠なものなのだろうと、2020年現在のボクは結論づけられます。
物事を習得するためには、1万時間が必要であるとしたマルコム・グラッドウェルの「1万時間の法則」は聞き慣れている人もいるでしょうが、1万時間を達成するためには才能だけでは不可能です。
(ちなみに、注意が必要なのは1万時間をやれば成功するわけではなく、成功した人をみていくと...なんて説明は野暮ですね。)
共に暮らす子どもたちにはボクと妻さんからの遺伝情報がしっかりと刻み込まれているため、それを書き直したり修正することはできませんが、習慣は共有環境の中から育める可能性がありますし、それによって付き合う人たちとの関係性も変わってくることを考えると、決して安穏と過ごすわけには行かないことがわかります。
さて、どうしましょうか。と考えると、結局のところは当人が興味とか関心を持ったことを懸命に取り組めるだけの状況と、成果物が自分で確認できる環境を用意する他にできることはないのかな、と思ってます。
これをお読みいただいた皆さんはどうですか。