人生を振り返ってみる③(小学校3~4年)
担任と学校生活
この期間の担任はベテランのおばさまで、とにかくもう学校や家には…ではなく、すさまじく厳格な先生だった。真面目で一切に妥協がなく、眼光鋭く生徒の様子をつぶさに観察していた。いつも仏頂面で緊張感があり、クラス内で起こるありとあらゆる問題を全て話し合いによって解決しようとする流儀であった。教育熱心だし、決して悪い人ではないのだが、不真面目でテキトーでゆるゆるな筆者はウミンチュに海底へ引きずり込まれたかのごとく、四六時中息苦しさを感じていたように思う。
一日の最後に行われる「終わりの会」というのが本当に地獄で、クラスの真面目女子たちにふざけ男子の悪行が晒され、ひたすら糾弾され続けるという拷問のような会だった。男子には再発防止策の提示が義務づけられ、おばさまと女子たちが納得するまで帰れない。まさに終末、終わりの会。思い出すだけで寒気が…首筋にひんやりとそよ風が…
しかし、この鬼のような先生に一度だけ褒められたことがあり、それは鮮烈な記憶として脳裏に焼きついている。この先生は美術の教員でもないのに絵の具を使って絵を描くことに並々ならぬ熱意を持っていて、やたらめったら絵を描かされた。面倒な気持ちはあったが、絵はわりかし好きだったので、自分にしてはそこそこ真面目に取り組んでいた。そしてある時、先生が筆者に向かってふと、「あなたは本当に絵が上手ね」と言ったのだ。ななななな何ですとォーーーーー!!自分はこの言葉に脳天を貫かれるような衝撃を受け、自己肯定感が大気圏を突破し、金星水星を飛び越え、太陽にまで達したのだった。それはノムさんが鶴岡親分に「お前、ようなったな」と言われたことをいつまでも覚えているように。余談だが、筆者は数年後に市の年賀状コンクールで3位となり、おばさまの隻眼が正しかったことが証明された。
ファミコン登場
一方、世間では任天堂のファミリーコンピュータがおもちゃ界に大旋風を巻き起こしていた。カセットビジョンとの覇権争いにも勝利したファミコンはあっという間に普及し、ダブルインカムで極貧生活を脱していた我が家にもそいつはやってきた。最初に購入してもらったソフトは「ベースボール」である。大阪生まれにも関わらず、熱狂的なジャイアンツファンとして毎晩欠かさず野球を見ていた筆者にとって、この選択は必然であった。内外野を守る選手を操作できず、運良くアウトになるのを祈って見守るという現代では考えられない仕様だったが、当時は大いに楽しんだものだ。しかし、本体前面のコネクタをピンで触ることによって、超絶スローボールを投げられるという禁断の裏技に味をしめたことで、たびたび動作不良を起こすようになってしまい、後悔先に立たずということわざの意味を身をもって知ることになるのだった。
我が栄光の巨人軍
我が栄光の巨人軍について補足する。物心ついた時にはファンになっていたので、おそらくは父の刷り込み、マインドコントロールであろう。幼少期のヒーローは何と言っても江川卓である。初めて現地観戦したのが大阪球場のオールスターゲームで、バックネット裏の特等席であった。目の前に本物の江川がいる!!と大興奮したのを鮮明に覚えている。のちに江川は広島市民球場で小早川にサヨナラホームランを打たれて引退を決意するのだが、その前に中畑がファーストゴロを悪送球していなければ試合終了だった。中畑お前なんちゅうことしてくれたんじゃい!筆者は折に触れてその事実を流布させ、中畑絶対許さないマンとしてしばしの時を過ごした。最終的に彼を許したのは、翌々年の日本シリーズ第7戦で代打ホームランをかっ飛ばした瞬間である。あれは本当に感動した。今年の甲子園天王山第2戦で坂本が放ったタイムリーに匹敵する名場面と言えよう。ジャイアンツについて語り出すと精神と時の部屋ですら時間が足りないため、いったんここまでとする。
カブスカウト入隊
具体的にいつだったかは忘れたが、この間のどこかでカブスカウトに入隊した。カブスカウトとはいわゆるボーイスカウトのことで、小3から小5の世代をそう呼んでいる。母方の叔父やいとこたちがみんな入っていたので、自然な流れではあったのだが、日曜日の朝はキン肉マンのテレビ放送があり、この貴重な時間を毎週スカウト活動にあてるのは耐え難い苦痛であった。野外の集会は雨天中止だったため、呪詛するような思いで雨乞いをしたものである。しかし、元来インドア気質な筆者がアウトドアの素養を身につけられたことは、人間力の向上に大きく寄与したと思う。多少理不尽なところもあるが、活動を通して自主性、協調性、社会性が育まれ、人間としてタフになるかもしれない雰囲気が辺りにそこはかとなく漂っているような気がしないこともないので、我が子を千尋の谷に落とす気持ちで体験させてみてはいかがだろうか。
④へ続く。
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