強いて言うなれば腹痛に襲われただけ
例えば件のゴム人間が海賊の王を目指す物語然り、関東最大の暴力団組織の元会長に降り掛かる数々の事件を描く物語然り、あるフィクションにおいて善なる主人公勢力が悪なる敵対組織を、至極真っ当な正義の名のもとに暴力でもって壊滅させるストーリー展開は最早、定番過ぎるほど定番であり、類似する構成の物語を数えると枚挙にいとまがない。しかし僕自身は声高に、それら有名な作品の構成が、かくも凡庸なる点で批判できる立場にはない。何故ならそのような在り来りな物語さえ、ゼロから作り出す能力が僕にはないからだ。
下劣で、卑怯で、猟奇的で、特段に利己的な人物像を思い描くには、現実の日常が平和すぎる。
とはいえ現実社会の中に、どうやら悪人は存在するらしい。
ある一家を洗脳し肉親同士で殺し合うように仕向ける程、残虐非道極まる男がいれば、大衆の無知につけ込み税金という名目で大量の金銭をむしり取った挙句私利私欲の為にその金を使い込む輩も存在する。
SNS界隈では有名な、「正義の反対は悪なんかじゃない。また別の正義だ」という名言(どうやら厳密には野原某のセリフではないらしい)が陳腐に聞こえるほど、それらはあまりにも猟奇的な悪意と利己的な悪意だ。
それでも彼らを裁くのは正義の拳ではなく、法または大衆心理である。
勧善懲悪のストーリー構成は、どうやら現実にはありえないが故に人々の心を魅了するのかもしれない。
悪人が現実社会に蔓延っている事実はあれど、実際問題僕の日常に存在する悪意といえば不意に訪れる腹痛くらいのもので、それは無神論者である僕が神に祈りを捧げるほど悪意に満ち満ちている。
その化身はこの世で具現化できる最もわかりやすい形(というか臭い)としての悪意の塊といった様相だった。
あの時、令和3年11月21日なおてぃと一緒にいたあの時、太子の交差点で出会った悪意もまさに、言語化するなれば、とにかく糞だった。
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