「田楽・神楽・雅楽の歴史」について
第百六十九回 サロン中山「歴史講座」
令和六年11月11日
瀧 義 隆
令和六年NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代
歴史講座のメインテーマ「王朝文化(平安時代)の探求」
今回のテーマ「田楽・神楽・雅楽の歴史」について
はじめに
9月9日放映の「光る君へ」の中で、宮廷の中にある庭園において、「曲水(ごくすい)之宴」が開かれている様子があった。この「曲水之宴」とは、川の流れに酒盃を浮かべ流して、その盃が面前に来るまでに和歌を造り比べる、という優雅な遊びである。その「曲水之宴」を盛りたてるのが、バックで奏でている「雅楽(ががく)」でもある。この「雅楽」について、紫式部が著した『源氏物語』では、「紅葉賀(もみじが)」の冒頭に、帝(みかど)が試楽(しがく)を催された時に、「源氏の君」が「雅楽」の音に乗って「青海波(せいがいは)」を舞っている様子を描いている。
『日本の古典 5 源氏物語』世界文化社 1975年 30P
そこで、今回の「歴史講座」では、この「雅楽」や「田楽」・「神楽」の歴史について取り上げ考究してみたい。
1.「楽舞(がくぶ)」について
「雅楽」とは、何時頃から我国に存在するものなのか?『古事類苑』に記載されている史実を調べてみると、
「新羅(しんら)楽」・・・朝鮮の新羅を経由して日本に伝わった雅楽である。
「百済(くだら)楽」・・・朝鮮の百済を経由して日本に伝わった雅楽である。
「高麗(こま)楽」・・・朝鮮の高麗を経由して日本に伝わった雅楽である。
「唐楽(とうがく)」・・・中国の唐から日本に伝来した音楽。
「伎(ぎ)楽」・・・古代の舞踊の一つで、面をかぶり音楽にあわせて演ずる舞踊劇である。
「林邑(りんゆう)楽」・・・ベトナムの中部から日本に伝来した雅楽の一種である。
「文武(もんむ)天皇」・・・第42代目の飛鳥時代の天皇である。天武天皇十二年(683)~慶雲四年(707)まで在位した。
「大寶(たいほう)ノ制」・・・大宝元年(701)に制定された、「大宝律令(たいほうりつりょう)」のことで、現代の「行政法」・「刑法」・「民法」などにあたる法令である。
「雅楽寮(ががくりょう)」・・・律令制度において、古代の教育を司る機関である冶部省に属し、宮廷の音楽や舞踊の教習を行う部局である。
「楽家(がくけ)」・・・雅楽を伝承してきた家系のことで、安倍家・東儀家・多家(おおのけ)等がある。
「搢神(しんしん)ノ間」・・・官位の高い人、身分の高い人のこと。
「中古喪亂(そうらん)ノ世」・・・日本の中世における戦乱の世の中のこと。
「上古(じょうこ)」・・・日本の古代の世の中のこと。
以上の史料によると、「雅楽」は、「楽舞」として位置付けされており、その起源を辿れば、神代の時代まで遡らなければならないが、神代の時代を示す史料もないので省略することとし、少なくとも、7・8世紀頃の日本には、朝鮮半島を経由して様々な音楽が到来しており、文武天皇が大宝元年(701)に「大宝律令」を制定した際には、朝廷内に「雅楽寮」なる楽人等を管理・保護する専門機関を整備していることを示している。
それが更に、中世の騒乱時代にあっても、「雅楽」が神事や仏事等で継続され続けられ、「上古」の「雅楽」の伝統が連綿と継承されて今日に至っている事を物語っているのである。
2.「田楽の歴史」について
「田楽」は、平安時代の中期頃に成立した伝統芸能であり、「楽」と「踊り」から成っている。本来は、田植えの前に豊作を祈って行う「田遊び」が変化したとする説と、渡来した芸能の一つだとする説もあり、明確にはなっていない。
「田楽」についての文献史料としては、長徳四年(998)に、京都の松尾神社の祭礼で、山崎の津人(“しんじん”と読み、船頭のことである。)が「田楽」を演じた、とする記録が残っている。また、平安時代に書かれた『栄花物語』にも、田植えの風景と「田楽」を歌い踊る様子が描かれている。
平安時代後期になると、寺社の保護のもとに、「田楽座」なるものが形成されて、「田楽」を専門的に踊る「田楽法師」という専門的芸能人も生じてくる。鎌倉・室町時代には、「田楽」は演劇的に要素も加わり、「田楽能」となって発展した。また、室町時代には、四代将軍の足利義持等も、好んで「田楽」を楽しんでいた。しかし、「大和田楽」なるものが流行してくると、単純な「田楽」は衰退してしまうこととなった。
江戸時代に入ると、「田楽」は芸能としての存在を失い、地方の神事・祭礼の中に、民俗芸能として吸収されるようになってしまった。
『国史大事典 第九巻』吉川弘文館 昭和六十三年 940~942P
★「食べる田楽について」
平安時代の末期に、中国から「豆腐」が伝来し、拍子木型に切った豆腐を串に刺して焼く料理が生れた。その後、室町時代に入って調理の技術が進歩すると、「すり鉢」が発明されて、「すり味噌」が登場することとなり、永禄年間(1558~1570)頃には、焼いた豆腐に味噌を付ける料理が流行するようになった。その料理の白い豆腐の串に刺した形が、田植えの時に「田の神様」に豊作を願って、白い袴をはいて一本足の「竹馬」のような高足に乗って踊る「田楽法師」に似ている為、「田楽」の名前となった。「食べる田楽」という名前が、記録として見られるようになるのは、貞和六年(1350)の祇園神社の記録が初見である、とする説、また、永享九年(1437)の『蔭涼軒目録』が初見とする説、更に、興福寺と東大寺の僧語である、とする説があり明確ではない。
室町時代の後期には、連歌師の「宗長」の日記等にも「食べる田楽」の文字が見られ、江戸時代の川柳には、「田楽は、昔は目で見、今は食ひ」とあるように、「田楽」は比較的、一般的な食べ物となってきている。
3.「神楽の歴史」について
「神楽」については、平安時代の中期頃に完成したものと考えられているが、明確な文献史料はみつかってはいない状態である。そもそも、「神楽」の語源は、「神座(かむくら・かみくら)」が変化して「神楽」となった、と考えられており、「神座」とは、「神の宿るところ」を意味するものであった。「神楽」は、「雅楽」の一部であり、古くは「内侍所(ないしどころ)神楽」と称されており、賀茂神社の臨時祭の「神楽」や、石清水八幡宮の臨時祭の「神楽」を起原とする説もある。
また、長保二年(1002)か、寛弘二年(1005)に行われた「神楽」が後に年中の行事として定着した、とする説もある。「神座」とは、「巫・巫女(みこ)」が人々の穢れを祓いのけるもので、神人(しんじん)一体となって宴(うたげ)を行う場での歌舞(かぶ)である。
一説には、「神楽」は、『古事記』や『日本書紀』に記載されている、「天の岩戸の前で天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が神懸(かみがかり)となって、裸踊りをした。」という事が起原である、というものである。以後、「神楽」は各神社を中心に、鎌倉・室町・江戸・明治と伝承されてきて、現在に至っているのである。
★「神楽」の種類としては、
「巫女神楽」・・・祈祷や奉納の為に巫女が舞うもので、鈴や扇、笹や榊、御弊(ごへい)等を手に持って舞うのである。
「採物(さいもの)神楽」・・・別名を「出雲流神楽」と称し、出雲国の佐陀(さだ)大社の、御座替(おざかわり)神事を源流としている「神楽」である。この「神楽」は、演劇性や娯楽性を高めた独自の「神楽」スタイルをもっている。
「湯立(やだて)神楽」・・・別名を「伊勢流神楽」と称しており、伊勢外宮の摂末社(せつまつしゃ)の「神楽役」が始めたもので、これが地方へと広まった「神楽」である。釜でお湯を沸かし、巫女が自分自身や周囲の人達を清める為にお湯を撒き散らしてかけた事から、「湯立神楽」と言われるようになった。
「獅子(しし)神楽」・・・「獅子舞」の一つであり、獅子頭(ししがしら)を御神体とするもので、各地を巡ってまわり、祈祷やお祓いを行う。東北地方の「山伏(やまぶし)神楽」と、伊勢地方の「太(だい)神楽」とがある。
『国史大事典 第三巻』吉川弘文館 昭和五十八年 204~205P
4.「雅楽の歴史」について
この項では、「雅楽」の歴史について見ることとしたい。
「雅楽」は、アジア大陸から日本に流入した「音楽と舞」であり、平安時代の初期から中期頃にかけて「雅楽」としての形態が成立したのでは、と考えられている。
「雅楽」とは、「雅正の楽舞」が元となっており、日本古来の歌揺も取り込んで「国風歌舞(くにぶりうたまい)」として、宮廷の行事や儀式で演奏されるようになった。
★「雅楽」で使用する楽器は、「笙(しょう)」・「篳篥(ひちりき)」・「龍笛(りゅうてき)」・「高麗笛(こまぶえ)」・「神楽笛(かぐらぶえ)」・「琵琶(びわ)」・「箏(そう)」・「和琴(わごん)」・「鞨鼓(かっこ)」・「三の鼓(つづみ)」・「楽太鼓(がくたいこ)」・「鉦鼓(しょうこ)」以上の12種類である。・・・・・・・・・・資料①参照
奈良時代には、「雅楽寮」が創設されて、寺院では独自の「楽師」集団を形成するようになった。
平安時代には、「雅楽寮」は縮小されて、宮廷では近衛府の官人や殿上人が行うようになり、寺社でも「楽人」が演奏するようになる。平安末期になると、地下人の「楽家」が台頭するようになり、「雅楽」演奏の中核を成すように変化してくる。
室町時代になると、「応仁の乱」が起こって、世情不安定となり、宮廷の音楽としての「雅楽」は、ほぼ断絶するような状態となってしまう。正親町(おおぎまち)天皇・後陽成(ごようぜい)天皇の頃になると、京都のみならず地方の寺社から「楽人」が集められ、宮廷儀式の中で「雅楽」が少しづつ復興することとなった。
江戸時代には、徳川幕府は「禁裏(きんり)様楽人」を創設して、「宮廷雅楽」を復興し、幕府のみならず地方の大名達も「雅楽」を愛するようになった。明治時代に入り、新政府は、東京に「楽人」を集めて、「雅楽局(後の宮内庁雅楽部)」を創設して「雅楽」の伝承に務めた。新政府の努力もあって、「雅楽」は現在の「宮内庁」へと継続して受け継がれ、また、全国の大きな寺社においても「楽人」を置いて、祭礼の時には「雅楽」を演奏している。
『国史大事典 第二巻』吉川弘文館 昭和五十八年 137~138P
まとめ
令和六年の、NHK大河ドラマ「光る君へ」も、12月15日の第48話が最終回で、「まひろ(紫式部)」も終焉をむかえる。「まひろ(紫式部)」の没年については、
長和三年(1014)二月・・・・岡 一男説
長和五年(1016)二月・・・・与謝野晶子説
寛仁元年(1017)以降・・・・山中 裕説
寛仁三年(1019)以内・・・・今井源衛説
治安元年(1021)春・・・・・上原作和説
万寿二年(1025)以後・・・・安藤為章説
万寿・長元年間・・・・・・倉本一宏説
長元四年(1031)没・・・・・角田文衛説
今井源衛著『人物叢書 紫式部』吉川弘文館 昭和五十七年
以上のように、八つの説があって、未だに死亡年月は明確にはなっていない。従って、「まひろ(紫式部)」は天禄元年(970)か天延元年(973)の生れとする説に従うと、上記の死亡年月から推定して、四十歳前半から五十代前半で死去してしまったのでは?と考えられる。「四十歳前半から五十代前半ば」と言えば、現在では「若死に」になるが、平安時代の平均寿命が四十歳程度であった、とされていることからすると、「まひろ(紫式部)」の死は、「それなりであった。」としなければならないのかもしれない。
いずれにしても、今年の大河ドラマ「光る君へ」に描かれた平安の王朝時代は、現在の感覚からすれば、特殊な貴族社会の贅沢三昧の生活模様であり、この観点に立脚すれば庶民とは遠くかけ離れた
あくまでも「絵画の世界」の物としか見ることの出来ないものだったような気がしてならない。
参考資料
参考文献
植木行宣著『中世芸能の形成過程 芸能文化史論集』岩田書院 2009年(Amazon)
古代文学会編『祭儀と言説生成の現場へ』森話社 1999年(Amazon)
次回予告
令和七年1月13日(月)午前9時30分~
令和七年NHK大河ドラマ「べらぼう―蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし―)」の時代を探る。
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