光は常に正しく在り その⑭:現象のように生きていく
「心からさみしくなるようなことが、おれにもひとつくらいあれば良いのにね。そしたらちゃんと、優しくなれる気がするんだけど」
パラパラと光が反射する水面を眺めながら、川沿いで犬にそんなことを話しかけてみる。
ここ最近、心のギアがまるで上がってこない。何をしていても、なんだか所在なく、呆けてしまっている。「心ここに在らず」って言葉で辞書を引いたら、例文としていまのぼくの状況が記載されてるんじゃないかなってくらいには。それはきっと、ぼくの気持ちに迷いがあるからだ。
これはおそらく、悪い予兆。こんなことを考えはじめて、未来が良くなった試しなんて一度もないんだけど。それでも、自らの意思で考えることを辞めないのは、因果なのか、はたまた業なのかしら。
一度立ち止まってしまうと、自分がやってきたこと、現在進行形でやっていることのすべてが異次元的に虚しく感じてしまう。果たして、それらに価値があるのかどうか。ぼくはそろそろ、自分の心に対して行方不明届を出さなくちゃいけない状況なのかもしれない。
優しくありたいとすることは、誰かの幸せを願うことは、ともすれば強かな傲慢さを孕んでいると思う。一見とても誠実な考えに見えるからこそ、余計に性質が悪い。
寝る前にはいつも、もう1人の自分が語りかけてくる。
『何もしてないくせに、誰かを応援することであたかも自分に価値があるように思い込みたいだけだろ?』
『何もできないくせに、使う言葉だけはそれっぽくて、一丁前だな』
『何もないくせに、やってるふりだけして、実際は何の努力もしてないんだな。だらだらと楽な方向に行って、緩くて、温くて、ダサいね』
うん、ぼくもそう思う。物心がついた頃から、長いことそんな会話を続けている。わかっているんだよ。ぼくの考えていることは、尊大な綺麗事だってことくらいさ。
ひとに価値があるとすれば、何に基づいて算出されるのだろう。ぼくの提供できる価値は、限りなく低いと感じているけれど、じゃあどうすれば価値が出てくるのかはわからない。
ぼくは宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」というお話が大好きなんだけど、あのお話は、「知らないうちに誰かの行いが、誰かの生き方や信念の支えになっている」って物語だと解釈している。どうかぼくも、ぼくのエゴを押し付けずに、ぼくの知らないうちに、誰もぼくのおかげだと思わない間に、誰かのためになるような生き方をしていたい。
そう。喩えるならば、雨。雨が降った時、もしかしたらあなたは、なんとなく気怠くなったり、楽しみにしていた予定が潰れることで怒ったりするかもしれない。だけど、あなたが普段あまり深く考えない部分で、干からびた大地に潤いをもたらせたり、虹をかけたりする。でもきっと、それに対して、「雨が降ったおかげだ」なんて思ったりはしないでしょう?
できるだけ、そんな風にいられるように。ぼくは現象のように生きていく。
願わくば、多くの需要を満たすだとか、世の中に求められていることを外側だけ真似して演じていくとか、資本主義的すぎる考え方とは違う答えを出したいから。だだそこにあることが、さりげなく素敵な影響を及ぼすような、、、。まだまだ、ぼくのやっていることの価値は限りなく低いけれども、まったくないわけじゃないと信じたいから。
楽しい瞬間に一緒に楽しむことは、誰でもできることだと思っている。だから、あなたが眠るのを哀しみが邪魔する時、そっと寄り添っていられる力がほしい。あなたが気づかない間に、ぼく自身もそんなことを考えないうちに、あなたのためになれるように。
どうかまた、その唇から、あのキラキラした綺麗事が聴こえますように。
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