ロマンスのない愛/曖昧

ロマンティックを持ち合わせていない私は、いわゆる「そういう雰囲気」を感じ取るのが下手くそだ。甘い空気もドキドキもそれらに付随する切迫感も、意識して感じ取ろうとしてもやはりわからない。喜怒哀楽では生じる激情が、愛においては全くと言っていいほどに現れない。触れ合うことの緊張だけが体を覆う。確かにロマンティックはわからないけれど、セックスを他者に望むとなるとそれもまたわからないのだと、初めて知った。そして改めて、ロマンティックの最上級としてキス(そしてセックス)が描かれる理由がわかった気がする。でも、至極当たり前のことだが、愛を表現するのは、その根本の愛をどう感じどう捉えるかなんて全く人それぞれだと、ようやく偽りなくわかった。ただ抱き合って触れる頰は、体温は、手はとても気持ちよく心地いいものだ。握り返される力の強さは安心するし、手を繋いで話しながら歩くのは、とても穏やかな幸せなのだと感じた。今まで単なる人肌恋しさだと思っていたけれど、関係そのものが温かく心地よく愛おしいものなのだと。やはり穏やかな愛をあの時私は抱いたのだ。求める気持ち、わかって欲しいという気持ちより、1%でも自分を受け渡すことを望む相手がいるということが、私の中での愛ある関係なのだと思う。私にとってますますロマンティックは理解できないものになり、愛はもっと身近なものになった。


ただ生活しているだけだと、思っている以上に完璧で完成された人としか出会わないんだなと、正確には、人の完成された面しか見えないんだなと思った。例えば結婚して私を産み家庭で育てた両親、異性愛を疑わない人々、ロマンティックを当然のものとして語る社会。また、性的マイノリティとして、誰がどう好きか、自分をどう生きたいかを見つけて、それらを自分のものにして生きている人々の方が圧倒的に多いことを知った。私に限らず、誰もがどこかしらにある曖昧さをそのまま持って生きるには中々に困難が多い社会を生きていると思う。大抵のものはわかりやすくAorBに分けられている。向き合い続け考え続けることは体力がいるし、効率的ではないかもしれない。でも、分けるということは規定に当てはまらない部分を持つ人が生まれるということではないだろうか。しかも、その区分はある一部のみをもってされることが多い。曖昧さが目立つか目立たないか、それによって置かれる環境は変わってくると思うが、区分によって振り落とされ受け入れられない人がいるのは、全ての人をどこかで切り捨てることにならないだろうか。

思えば、私自身「男らしさ」「女らしさ」というものにずっと居心地の悪さを抱えて生きてきた。小学生の頃、ピンクやスカートがどうしても好きになれなかった。女子はスカート着用の音楽会がものすごく憂鬱だった。服はメンズものしか持っていなかった。でも髪を留めるピンはカラフルでかわいいものが好きだった。中学生の頃、Tシャツ一枚で過ごせる男子が羨ましくて、学校にブラジャーを着けないで行ったことがある。ただやばい奴と見られていたのかもしれないが、その時あったのはシンプルに「Tシャツ一枚の方が楽そう、着心地が良さそう」という考えだけだった。昔から背が高く、髪もベリーショートと呼ばれるほどの長さであることが多かったためか、しょっちゅう男性だと思われていたように感じる。トイレが空くのを待っていたら、男子トイレを勧められたこともある。でも、そのことに対して嫌悪感を覚えたことはない。見た目はあてにならないし、見た目の影響は大きい。そんなことを感じただけだった。それは私がいわゆる女性っぽくない格好をしていることに対して自覚的で、それを自分の選択としてやってきたからだ。その表現がはっきりではなくとも通じていたからだろうか、幼稚園の頃から中学生の頃まで、何か4、5人でのグループ活動がある時、他グループは男女比が強固な1:1なのに対し、3:1の1であることが多かった。周囲からも、割と女性という枠を外されて見られていたのだと思う。それらはある意味、決めつけから脱したようでとても気分がいいことだった。今も、服は一見性別がわかりにくいものやメンズよりのものを好んで選び、そしてカラフルなアイシャドウが好きだ。背が高いから、髪が短いから、メイクをするから、メンズを着るから、スカートを好まないから、ブラジャーをするから、一人で立ち食いそば屋に入るから、声が高いから、女性に見られたくない日があるから、男性だとは思っていないから。色々あるけれど、これらは私にとって単なるその日その日の選択でしかない。曖昧は曖昧のまま存在していられればいい。ストレートではない、もうそれでいいかなと思う。居場所は不安定だけど、そういうものだと思っていくのも悪くない。
しかし、自分を曖昧だと思っておきながら私はまだ二元論から完全に脱却できていない。アンケートの欄が男女だけなのに違和感は感じても、なぜか、と聞かれた時に理由を言葉にするのはまだ知識が足りていないと感じている。ジェンダー、セクシュアリティをお気持ちに押し留めようとするのは間違いだ。規範は時代に合わせて、なんて言葉は甘い。確かに存在する人を無視することはできないと思っている。まずは文字として表明して、そこから自分の言葉として思いを作り上げていこうと思う。そうしなければならない。

私は自分をレインボーを名乗ることを、なんとなく自分の信念と100%重なっているとは思えずにいる。GSRM(ジェンダー・セクシュアリティ・ロマンティック・マイノリティ=性的マイノリティ)が一番しっくりくると思っている。シンボルを持つのは、自分自身のプライドとともに外へのアピールに有効だと思っている。わかりやすさは重要なものだ。同じ志を持つ者として皆の存在を尊重している。ただ、レインボーを持つことで生まれるある種の一体感のようなものにどうしても馴染みきれないのだ。緩やかな連帯の中に存在する自分でありたいと思っているが、どうも折り合いが上手くつかない。明言されなくとも、皆自らの居場所を確固たるものとして持っている中にいると、はみ出し者の気分になる。クエスチョニングと曖昧は同じことなのか。私は違いがあると思う。そもそも個人で違うことなのだから、どこか共通点があるだけで(それが表面化していない内面の部分であっても)全く違う人たちが集うことができればいいのだろう。それを連帯と呼ぶのか、よくわからないでいる。



最近、インターネット上でこうやって自分の内面を吐露する代わりに、リアルな場に出向いて話をすることを意識しているのだが、そこで得るものはとても大きい。皆私よりずっと頭が良くて視野も広く、偏見から脱却していて自分の無知に落ち込んだり。考えずに放った、時に考えて放った言葉が言ってから差別的だったことに気づき、差別を内面化していて他者を傷つけてしまったことを後悔し反省したり。思いもしていなかった肯定の言葉に驚いたり安心したり。何気なく放たれる差別や偏見に傷ついたり。社会に出るとより自分の孤独さを肌で感じるけれど、同時に似たような人が思っている以上にいることも知る。わかり合うことは困難でも、そのままを否定しない、されない世界を生きたい。