見出し画像

視点の自由研究No.100「視点_この人間という哀しくもおかしい生き物よ」

さてこのコラムも100回目を迎えました。50回目に娘に向けて書いたメッセージ。キリのいい回数である今回も大人になった時の娘に宛てたメッセージとして書いてみようと思います。

大人って実は大きくなった子供ってお話。

「発達障害」

娘が保育園の時に発達障害という認知をされました。2023年の今は、脳の認知機能もカテゴライズされ、コミュニケーション能力に重きが置かれている世界です。そうした一能力に対して、少し劣るだけで言葉によるカテゴライズをされてしまう。

かつてからコミュニケーションが不得意という人はいました。こうしたカテゴライズ化は時にそうした方の苦しみを理解し、自身の生き方を生きやすくする道標にもなりました。逆に将来の人生設計での選択肢を少なくしたりと新たな息苦しさも生まれています。

でも、ふと娘である君を見ていると思うのです。

ほとんど昔の私と変わらない。多少の表現の違い、言語化ができていないなと思うことはあれど、感じていることに差異はないなと。

人間というは兎角分類したがるものです。それが差別を生んでもいる。でもそれは単なる言葉だということを伝えたいと思います。

そうした性格なのです。そしてそれと付き合い、どう生かしていくか?考えていきましょう。

「尊敬するのは」

さてここで、私が大切にしている言葉を送りたいと思います。
これは、私の大学の恩師から頂いた言葉で、自分でも結構重要だなと思っている言葉です。

曰く「様々な専門分野の方がいるが、その分野の知識、技術だけを尊敬しなさい。人間性まで尊敬する必要はない。」という言葉。

自分も社会に出て、様々な人に出会う中で改めてこの言葉が身にしみています。確かに人間性が素晴らしい方もいます。が、そんなに滅多に会わないというのも事実。仮に会ったとしても自分と考え方が一致することも少ない。

逆に自分が尊敬できる人間か?と問われても全然違うと言える。

全ての人間は歪だと思うのです。尊い部分もあれば、愚かな部分も持ち合わせている。だからこそ愛おしいとも言える。

人は皆バカとも言えるのです。一人の人間を全て丸ごと尊敬できるということはないと考えています。

「人間は等しく賢くバカである」

ただバカだけの人というのも実は存在しない。人は皆等しくバカの成分を持ち合わせていると考えた方がしっくりくるのです。

その時々、出会う事象によって、おかしな判断をし、結果バカな行動をとってしまうだけ。自分の中のバカの割合がその都度変わっているだけだと思います。出会った事象によって自身のキャパを超えてしまうことで、判断の基準が狂っていく。まるでバカの針が振り切れてしまうかのように。

思い返せば、戦争を起こしてきた歴史上の人物たちもしっかりと学び、学歴の高い賢い人々でした。それでも間違った選択をとってしまう。それが人間だと思うのです。

人間は等しく賢くもありバカでもある。

今回は自戒も込めた娘へのメッセージとしてみようと思います。
大人になった娘が生きる世界が、バカな選択をしていないこと、そうした世界にしないように今を大切に生きることの責任を感じています。




映像でお困りの方、静岡で撮影されたい方、ぜひ一度お声掛けください。