Day1512「日本人」というアイデンティティーが邪魔になるとき


 
3年くらい前に、ボニー・ノートンさんという方の論文をグーグルスカラーで隅から隅まで見て論文を端から読んだことがある。代表的な論文(と思っている)によく描かれているのは、カナダに来た移民の人たちが、職場や学校において、自国の文化について軽く見られたことや、自分が母国で周囲から慕われたり、専門性を評価されていたこととは反対に自分の英語がつたないことで馬鹿にされてしまう場面に出くわすことでアイデンティティーが揺らいでいくというものだった(詳細に覚えていない)。量的研究ではないので、もちろん移民全員がそういう体験をするとは言い切れないが、私自身もノートンさんの論文の移民(研究参加者)に少し共感できるような体験をしたことがある。
 
まずサスカトゥーンという、日本人人口がカナダ全土でみても極端に少ない地域に到着したはじめのころは、そもそも珍しいという理由で「稀に見る日本人として」いろんな人から話しかけられることがあった。もちろん、最初は別に嫌悪感など抱かず、「へえ、このへんでは珍しい人種なんだな」と思っていたくらいだった(ブリティッシュコロンビアやアルバータなどに行けば日本人(東アジア人)が密集して暮らしている地域があるのでそこと比較して珍しかった)。また人種として珍しいだけでなく、日本文化、つまりアニメやマンガが世界中で愛されているがために、いろんな人に会うたびに「日本のアニメを知っているよ」と言われることはあったが、対照的に自分はその人の国の文化について1ミリも知っていないことが多かった。これは日本人のワタシが無知であるというよりも、世界中の人がアニメ(日本文化)について知りすぎているのではないかと思った。そういう風な体験を重ねていく中で、徐々に自分の中に違和感として生まれたのが、話しかけてくる人たちは自分の研究やパーソナリティ等に興味があるのではなくて、日本人という人種に興味があって話しかけてきているということであった。自分がもしカナダで日系カナダ人として生まれ育っていれば(幼少期をそこですごしていたとすれば)、「へえ日本人なんだ」と言われたら、それをアイデンティティーの一部としてすんなりと受け入れていくことができたのかもしれない。なぜなら幼少期や少年時代というのは特に専門性や将来の方向性みたいなものが決まっていないし、日本国外において日本人がいない地域で日本語を話しているということ自体がかなり貴重になりうる。が、自分は大学院(22歳)からカナダに来たので、母語も自分の今後の将来の方向性や専門性みたいなものもある程度固まっていたので、「へえ日本人なんだ」という表面的な会話で終わってしまうことにどこか物足りなさを感じていた。おそらく、自分が30歳とか40歳の時にカナダに来ていたら、「ほぼ完全に」アイデンティティーを形成した上で来ることになるので、そこで「へえ日本人なんだ」という表面的な会話ばかりにでくわしたらもっと微妙な気持ちになるであろう(多分)。
 
という風に、「へえ日本人なんだ」ということから会話のネタが広がることがあっても、そのオチは結局日本文化であることが多いことを学んだというか、感じた。また、自分が言語学の所属だったので、「こいつ何しに来たんだ(笑)」と思われていたのかもしれないが、自分は言語学には正直興味がなくて、どちらかといえば心理学とか社会学関連の研究をしていきたいと思っていた(る)人なので、専門の話に踏み入れなかった人が多いのもわからなくもない(笑)。一方で(誰かが)他の国の人と話す場合、その国について何か話すというより、いきなりその人のやっていることとか興味に入ることのほうが多かった印象がある。年齢が低ければ特別扱いみたいなものは嬉しいかもしれないが、年齢を重ねてアイデンティティーが固まっていくほど、その嬉しさの度合いは逆行していくのかもしれないと思った。もちろん、誰しもがその国の人種として誇りを持って生きていくのだろうし、自分も日本人としてある程度誇りを持って生きている。しかし年齢を重ねたり専門性が増していく中で、「日本人」というアイデンティティーは、年を重ねれば重ねるほど邪魔になっていくのかもしれない。逆に、年齢を重ねても「日本人」のアイデンティティーが強すぎる場合は、その人が全く成長していないという残酷な見方もできてしまう。アイデンティティーに固執せず、それをどんどん変えていけるような生き方がしたいと思ったのは、カナダ留学での体験があったからかもしれない(学部の頃から少しずつ思ってはいたが)。

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