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アイドルの等身大とは何か
原因は自分にある。の新曲「Q」は、「未来に進む人たちにそっと寄り添いながら気持ちを押して応援していく」曲として、11月2日にリリースされた。
その歌詞は、未来に進むげんじぶをかざして聴いてしまう。聞き手に寄り添う歌詞なのに、なぜアイドルである彼らが透けて見えるのか。アイドルの等身大とは何なのか。
楽曲「Q」の構成
繰り返すが、「Q」は、「未来に進む人たちにそっと寄り添いながら気持ちを押して応援していく」曲である。応援ソング。
応援ソングには三者の登場人物がいるとする。
・歌詞の主人公
・歌い手(げんじぶ)
・聞き手
の三者だ。
今回の「Q」も、配信前にイメージしていた「歌い手(げんじぶ)」→「聞き手」を応援のベクトルで間違いは無い。
「歌詞の主人公=聞き手」を「歌い手(げんじぶ)」が背中を押す構図だ。
しかし「Q」は、それだけでない。
「歌詞の主人公=歌い手(げんじぶ)」なのである。あまりにも彼らに寄りすぎている。
作詞作曲は、いつもお世話になっている久下真音さん。久下さんは、よくげんじぶのことを知っていてくれて、言われないと分からないくらいにこっそりと、げんじぶのエピソードを歌詞に隠してくれたりすることがある。
「悔しさが僕のためになるならもう怖くない なにも出来なかったあの日の出来事を歌いたい」と歌う雅哉くんのパートを聞いて、オタクは全員同じ情景を思い浮かべているに違いない。
まあ、果たしてこの楽曲がいつ完成したものか知らないし、オタクが勝手に思い浮かべているだけかもしれないが。
でも、げんじぶのオタクが聴けば、まさにげんじぶのことを歌った曲に聴こえてくる。げんじぶ主観の決意みたいな内容にとれるのである。
よって「Q」は、歌詞の主人公に対して、聞き手が自身を投影することもできるし、彼らを投影することもできるのだ。
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三部作の「等身大」、Qの「等身大」
3拍子、上裸のMV、いつになくリアルな歌詞。
そういう意味では、げんじぶにとっては少し異色な楽曲だなと思う。
この「Q」のリアルさを「等身大」ともするならば、2022年はそういうモードだと、かつてのインタビューで語られていた通りの楽曲である。
春にリリースした三部作もテーマは「等身大」であった。
でも、三部作と「Q」では、「等身大」の表現が少し違っているなと思う。
三部作は、「等身大」を詩的・絵本的に変換して表現してる感じがする。綺麗な日本語に変換された描写は、歌詞の出来事がどこか遠くで起きているように感じさせる。
遠くというのは、例えば物語を読んでいるような、あるいは、過去のことを思い返しているような、自分事ではない遠さだ。
その一方で「Q」は、「げんじぶ彼ら自身のこと」と取れるような歌詞になっている。「等身大」の対象=げんじぶ、とはっきりしている分、よりリアリティかつストレートなの内容になっているのではないかと思う。
(個人的には、545も繰り返す毎日にいたので545の続きみたいな感じもしてる)
では、げんじぶの等身大とは何か。
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原因は自分にある。の等身大とは
私は、2次元と3次元を行き来するという存在(=コンセプト)を外した原因は自分にある。のことだと思う。
それは、「素の7人自身」ということではなく、「原因は自分にある。である7人」、「偶像としての7人」のことだ。
これまでは、ずっとコンセプトで着飾っていた状態だったが、そのコンセプトを脱ぎ着できる状態になったのだと思う。彼らの見せる顔が増えたという訳だ。
月並みの言葉で言えば、表現の幅が広がったということかもしれない。
だから、彼らがコンセプトをやめたとか、コンセプトから道を逸れたとか、決してそういうわけではない。
今までの楽曲では、コンセプトを着た彼らが、たくさんの言葉を丁寧に扱ってきた。世界観を大切に育ててきた。
だからこそ2022年のモードである「等身大」が活きるのだ。
今回の「Q」もそうだ。
これだけの言葉数が多い歌詞、そしてどこか掴みどころのない曖昧な日本語を、強い意味を持たせることができているのは、彼らが今まで作ってきた原因は自分にある。の世界があるからだ。
追記(2022.11.19)
3rdアルバム「無限の終わり」が発表され、「2次元3次元を行き来するげんじぶの無限に広がり続ける可能性」という文言があった。
「コンセプトのげんじぶ」と「等身大のげんじぶ」というように別物で考えるよりも、「3次元のげんじぶ」の中に「等身大のげんじぶ」がある、という考えの方が近いかもしれない。
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等身大の彼らに思うこと
「Q」は、「心の声」に従って生きることを決めるストーリーである。
「心の声」とは、「夢」のことかなと思う。歌詞にも「夢見るならって 目を瞑ってみた」と出てくるし。
それを踏まえ、「Q」は、あまりにリアルすぎて、ある意味攻撃力の高い歌詞だと思う。自己肯定感激低メンタルよわよわ会社員の私にとっては、そっと寄り添うどころか、グイグイ背中を押して無理やり一歩踏み出させるくらいしてくる。「悩み迷う先で 曖昧にしないで」なんて、私にはできない。
そんな殺傷能力高い歌詞を、げんじぶのメンバーに投影して聴いてるだなんて、なんて自分勝手なんだろうと思う。
と同時に、こんなにも強い歌詞が似合ってしまうのは、目標に向けて駆け抜けてくれるアイドル(げんじぶ)の等身大だからだなあと思う。
改めて言うが、「彼ら人間としての素」ではなく、「げんじぶとしての等身大」への投影である。
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“今”の彼らの等身大を“今”見る
僕らの自由が 何か奪うなら
何もいらないって 言えるわけないから
これ、パッと見じゃ理解し得なかったし、今の私の解釈が正しいのかも分からないけど、「僕らの自由」=「心の声に沿うこと」だとするならば、
たとえ、何かを犠牲にするとしても、「心の声」に逆らうことはしたくないし、出来ないのだ。
では、原因は自分にある。である彼らにとって、犠牲とは何か。
それはもしかして、いわゆる普通の生活かもしれないし、普通の青春かもしれないし、有り余る時間かもしれない。
そして、いつか心の声は、「原因は自分にある。」という居場所を犠牲にすることもあるのかもしれない。
この心の声が 僕らの歩む未来だ
「心の声」が、「僕ら(=げんじぶ)」の歩む未来であるなら。
「心の声」が、7人とも同じであるなら。
「僕らの心の声」が、「原因は自分にある。が抱える夢」であるなら。
7人で歌ってくれる今が、とても尊いなと思う。
それが「僕らの歩む未来だ」なんて断定、そんな素敵なことがあるのかとも思う。
私はいつだって、自分のことを棚に上げて、アイドルには夢を追いかけて欲しいなと思う。変わらぬメンバーで、変わらぬ夢を追って欲しいなと思う。
それは、アイドルに対してだから思えることだと思う。良くも悪くも。
アイドルは永遠でないと分かっているのに、いつまでも変わらないでいて欲しいと願うことをやめられない私たちは、「まだ生きたい(シネナイ)」と叫ぶ“今”の彼らを、原因は自分にある。の等身大を、見つめる他ないのだ。