『あかり。』(第2部) #39 広尾商店街に通う・相米慎二監督の思い出譚
あれは、春だったと思う。もしかしたら初夏が近づいていた頃かもしれない。デニムのシャツを一枚だけで着ていった記憶があるのだ。
ある日。事務所に電話がかかってきて、広尾にある制作会社に呼ばれた。
穏やかそうなプロデューサーが出迎えてくれた。
要件は、グリコ・ポッキーのCMシリーズに相米慎二監督を起用したいのだが、手伝ってくれないかという相談だった。
その頃、ポッキーのCMはシリーズCMになることが多くて、旬の俳優を起用して人気があった。大阪の広告代理店とその制作会社が長く手掛けている広告界で歴史ある仕事だった。
「相米監督からムラモトさんのことは聞いています。T社ではどんなふうにやっていたんですか?」
そう聞かれたので、本当のことを話した。
意外そうな顔をされた。
この会社で、相米監督は『お引っ越し』『夏の庭』の2本の映画を撮っている。その製作にも大阪の広告代理店が絡んでいたらしい。
しかし、それは社内の映画の部署の話であり、CMの部署では、監督と一緒に仕事をしていないそうだ。
プロデューサーのHさんは、先人からこの仕事を引き継ぎ回している。この仕事は会社の看板の仕事なのである。
僕にとっても初めての制作会社なので緊張感があったが、その時は、なんともフレンドリーなアットホームな会社…という印象を持った。勤めていた会社とは真逆のタイプの制作会社だった。
勤めていた会社は老舗のデパートのようであり、この会社は街のブティックという感じだろうか。
広告代理店が書いた企画書を見せてもらうと、キャストには旬の俳優が選ばれていて、それぞれ商品とセットになっていた。
例えば、赤箱のポッキーには、吉川ひなの、緑箱のメンズポッキーは、鳥羽潤…といったふうに。
ラフな企画案もあった。手描きの熱量の高いコンテだった。
僕には引き受けない選択肢はないので、ありがたくスタッフに加えてもらうことにして、仕事の進め方を相談した。まずはスタッフの相談である。
初めての制作部が相米監督と組むわけなので、僕も以前のような感じでは、できないかもしれない。
そこで、カメラマンと照明部と美術部を提案させてもらった。
もちろん、T社で大変お世話になったカメラマンMさんを。
「セフィーロの仕事では、多くのカメラマンと組ませてもらったんですけど、Mさんが一番、相米監督とは相性が良かったと思います」
「そうですか。じゃあ、Mさんに受けてもらえるかすぐに聞いてみましょう」
Hプロデューサーは、僕の意向を組んでくれて、すぐに段取りしてくれ流ことになった。
(Mさんは、会社と交渉し、外部の仕事を快く引き受けてくれることになった。その頃、T社では撮影部のみ社外の仕事が許されていた)
勤めていたT社は赤坂見附にあった。今回のE社は日比谷線広尾駅・広尾商店街の奥にあった。
ずいぶんと様子が違う街である。
それがそのまま社風の違いになっているようで面白かった。
その日から、僕は広尾に通うになった。
監督に、流れを話すと「まあ、いいんじゃないか」と言ってくれた。広尾のE社は監督にとっても、敷居の低い(要するに、何かと遊びに行きやすい)会社だったのが、すぐにわかった。
社内の人は、ほぼ全員、監督のことを知っていて、迎えてくれる。暇そうにしている人を捕まえては、飯だ、ゴルフだ、と自由に振る舞っていた。
そもそも、会長自体が、監督の映画のプロデューサーなのである。
この人が、また面白い人であった。元CMディレクターと聞いたが、今は会社の経営に回っていて、監督の友人というか、スポンサーというか、タニマチというか、不思議な関係性だった。 こういう関係の大人同士を知らなかったので、一緒にいると新鮮だった。
それと大阪の代理店とE社の関係性も今まで知らないものだった。勤めていたT社と広告代理店の関係性とは明らかに違うのだ。
もう少し、距離感が近い・・・それとも違うな・・・相互扶助的なものだろうか・・・少し違うか・・・それは、おいおい仕事を通してわかってくるのだけど、会社員でなくなった僕にしてみると、監督がE社に甘えている感じや気分はわからなくもなかった。
とりあえず、監督はポッキーの新シリーズの大黒柱になることになり、僕はまた助監督につけることになった。
結局、CMは二年間で全部で19本、他に映画1本、と結構な本数を一緒に作った。
その仕事を通して、監督は背中で、あるいは言葉で、いろんなことを教えてくれたのだった。
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