『あかり。』 第2部 #38 ただそこにいた・相米慎二監督の思い出譚
あの頃…相米慎二という映画監督が広告界に残してくれたものはなんだったのか、少し考えてみる。広告界というと少し大袈裟になるから、あくまで我々の周囲にと言ったほうが、いいだろうか。
相米監督はいつだって、各論の人だった。つまり、対人の人だった。
監督に偶然関わったその個人が、業界(会社でも部署でも)に所属している限り、その個人は業界につながり、社会につながり、世界につながっている。
(元々、監督にそんな気はさらさらないだろうけど)世界が変わるとは、そこに生きている個人の意識が変わることだ。
いつか…その積み重ねと膨大な時間が、やがて世界を変えるかも知れない。
監督はいつだってその希望を捨てない人だった。
当たり前だが、一つ一つの芝居や編集や音のバランスにこだわり、時間をかけることを惜しまなかった。誰かと対話することを惜しまなかった。
各部署の助手さん一人一人の名前を呼び、からかい、励まし、頼りにしてるぜとばかりに、ニヤリとしていたのだ。
それは、とてもエネルギーのいる作業であり、人と関わることが、元来好きでなければ、とてもできない。希望を持っていなければ、絶対できない。
『演出家(監督)として、私はこうしたいという欲』が、作品を牽引する場合も多い。そして、相米監督はどちらかというと、そう思われていた人だと思う。しかし、一緒に多くの時間を過ごしてみると、そうではなかった。
『監督としての欲』は、とても小さな我である。(まあ、それも必要な時も多々あるけど)しかし、相米監督は『作品が何を求めるか』を『自分がどうしたいか』より優先できる演出家だったと思う。
他者評価を恐れることなく、その時関わっている人たちの気持ちや立場を優先できる、大人としての器があった。
しかし、それを、人格者として包み込む・・・というのではなくて、なんていうか・・・どうしようもないしがらみや情けない言い訳を馬鹿にしたり、からかったり、笑ったりしながら、市井の人として最後まで付き合ってくれた。そうすると、その人たちが、いつしか、自ら動くようになるから不思議だった。
すっかり巨匠なのに、巨匠のようには振る舞わず、誰に対しても(最初はぶっきらぼうだが)分け隔てがなかった。名刺や肩書きは関係なかった。その一方で、誰にどう話すと、物事がちゃんとまともに動くのか、すぐに嗅ぎ分けて、その人に対してはちゃんと角度を変えて向き合った。
わからないけれど(というか、そこには僕はあえて触れなかった)、監督が学生時代に関わっていたことと、何か関係があるんじゃないかとは漠然と考えていた。それは、監督の映画の中に時折りどうしようもなく隠しきれずに顔を出している。
監督は、自分がある集団のリーダーとして存在するには、どう振る舞うべきなのか、ということに、ものすごく自覚的であった気もするのだ。まあ、あくまで漠然としてです。
そして、その僕の漠然とした想いは、強烈に『それが、なんなのか、はっきり知りたい』という欲求にも絡んでくるのだけれど。
「どうして映画を撮るのですか?」と聞けば、「暇だからや」と答える。
「映画でもやんなきゃ、退屈だろう」と言う。冗談口調の中にも、半ば本気とも思える言い回しなので、僕は何度も質問を変えながら聞いた。
退屈しのぎに、あれだけ本気で取り組むというのが、まずおかしい。
『退屈』の反対語は、『熱中』とか、『没頭』とか、『熱狂』とか、だ。 監督は、人生に本来それらのようなものを求めていたのだろうか?
まあ、とにかく。あの頃……僕たちは、慣れ切っていたCM制作という川の流れの中で生きていた。そして、見事に流されるように生きていた。
そこに、どん!と岩が落ちてきた。岩は川の流れを変える。水はいったん岩に当たり、砕けて、流れを自ら変えていく。
岩は落ちてきただけだ。そこにいるだけだ。
空から、突然、啓示のようにして。
川の流れは、いつしか変わっていった。
そして、時間が経てば、岩もいつかどこかに流れていく。
誰かが、久しぶりにその川を訪れてみれば、いつの間にか流れが変わっているだろう。周囲の風景も変わっているのに気付く。
岩はもうそこにない。
その岩にちっちゃな苔のようにくっついて、僕は別の川に流れていった。そこで出会った人たちもまた、実に面白い人たちであった。その頃のことを第2部では書きたいと思う。