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『あかり。』(第2部) #57 向いてないもん・相米慎二監督の思い出譚

人には向き不向きがあることを教えてもらったことがある。

人はやりたいことをやりたいものだが、それがその人に本当に向いているかどうかは他者評価が決める。
それはその人の『人間的価値』とはまた違う。
ただ、向いているかどうかの問題なのだ。

あるとき、監督の別の撮影があって差し入れに向かった。
なんの撮影かは言わぬが花だろうと思う。
いつものように、差し入れであってもいつの間にか現場をお手伝いすることになった。
新人のタレントがいた。
他にも何人もキャリアを重ねた人もいた。

コンテが(企画)がよくなかった。
監督に明らかに向いていなかった。
腕を振るう材料がないと料理人は無力になる。しかし、テーブルに座って料理を待つ客は無自覚に待つ。

悲惨な光景である。

もちろん、そんな状況でもいつでも変わらず演出するのだが、失礼ながら役者がよくなかった。新人は監督の演出に戸惑い、何かやってみようとするのだが、全て空回りした。空回りした演技は見ていて痛々しい。
その痛々しさを監督の演出がさらに上乗せしてしまう。

こういうとき、並の演出家(例えば僕)は、騙し騙し撮る。できないことを無理にやらせず、できる範囲でその子のいい部分を掬い取る。いわば上澄みだ。感じよく可愛く、みんなの期待するあらかじめ見えていた落とし所を探る。
しかし、監督は絶対にそういう演出はしない。その子ができないことをやらせて、別の角度の彼女を探そうとするのだ。
リハーサルが重ねられ、テイクが続いた。

「いいことにするか」
監督が意外なテイクでOKを出した。
「え? いいんですか。全然できてないですよ」
思わずモニターの前でストップウオッチを押していた僕はささやいた。
すると監督は「だってあいつ向いてねえもん」と吐き捨てるように言った。
そのまま撮影は続き、少々破綻したまま撮影は進んでいった。

そのとき僕は、内心嬉しかった。
顔には出さなかったが(いや……出ていたかもしれないが)ニヤニヤしていた。

(監督の魔法がかからない人もいる。監督は魔法使いじゃないんだ……)

その新人は監督の選んだ人ではない。あてがいぶちのキャストだった。
監督が数々の映画で新人を育てたことは有名だ。薬師丸ひろ子・斉藤由貴・牧瀬里穂・田畑智子・工藤夕貴……。
しかし、彼女たちは何百人・何千人の中から監督が選び抜いた逸材なのだ。
つまり僕の言いたいことは、監督は才能のある人を見抜き、抜擢し、さらに演出で徹底的に磨き上げたということだ。

こんなこと今さら言わなくても、当たり前だと思われるかもしれないが、そうでもないのです。

才能がない、あるいは並の人には素敵な魔法はかからないというリアリティの問題なのです。

そのことが目の前で起きたとき、僕は感激した。
そして大きな福音を得た。

監督ほどの演出力を持ってしても、誰もがうまくできるわけではない、輝くわけではない、ならば並の僕はどうすればいいのか。

あらかじめきちんとした芝居のできる人を選べばいいのだ。
キャスティングの人に自分のイメージを伝え、資料を見せてもらい、過去作をチェックし、あるいは劇場に足を運び、優れた才能だと思えた人を撮ればいい。自分でなんとかしようなんて微塵も思う必要はないのだ。
数回のリハーサル、3テイク以内。撮影はテンポよく、アングルを豊富に、一番よかったテイクを中心に編集する。
監督と逆張りすればいい。

苦虫を噛み潰したような監督の顔を横目で盗み見をしながら、僕は大きな教訓をいただけたことに感謝した。

「だってあいつ向いてないもん」

人は向いていることを一生懸命やることが、幸せなのだ。





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