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『あかり。』第2部 S#83 愉しかりし日々(短編小説)相米慎二監督の思い出譚・番外編
愉しかりし日々
村本大志
I市の病院に入ったのが朝の何時だったのか記憶がない。ただ、広い待合室には、ほとんど人がいなかった。そこにいたのは、プロデューサーの武藤さんとマネージャーの花田さんと監督のお姉さんだけだった。僕はみんなに静かに頭を下げた。誰も何も話さなかった。しばらくすると、三山さんが青い顔をして自動ドアを抜けて入ってきた。僕は立ち上がって頭を下げた。三山さんも無言だった。病院の待合室はなぜかひどくひんやりしていた。まだ夏が終わったばかりの九月の頭なのに、この町はすでに深い秋のようだった。僕たちはお互い少し距離を取ってベンチに座り、ただ頭をうなだれていた。
今、僕たちの大切な映画監督が死の淵いる──。
やがて、花田さんが三山さんと僕を呼んだ。三山さんは、監督の最初の助監督であり、監督の作品を何十年も陰に日向に支えてきた人だ。僕は弟子筋ではあったが、主流ではなく、どうしてこの場に呼んでもらえたのかわからなかった。
「二人の番よ」と花田さんがなぜかいつもと変わらないやわらかい声で言った。ICUにいる監督に会えるそうだ。花田さんの声は、か細いのに妙に空間に響いた。
僕たちはナースの案内に従い、病院の廊下をゆっくりと歩いた。胸の鼓動が止まらなかった。心臓の立てる音が耳にはっきりと聞こえた。僕はこれから起こることに、向き合う準備ができていなかった。初めて入るICUは、ひたすら不吉な気配がした。一歩、一歩、僕たちは監督のそばに近づいた。映画のワンシーンのように、監督が救急ベッドに横たわっている。口にチューブが入り、体のあちこちに何かが繋がれていた。いつもかけていた丸い眼鏡も外されていた。そこにいた人は、僕が知っている監督ではなかった。
死に立ち会うとは、どういう意味があるのだろう。生きて、笑って、飲んでいた、あの愉しかりし日々と比較する事なのだろうか。だとしたら、なんと残酷な時間なのだろう。
僕は目前の濃厚な死の気配を前にして呆然と立ち尽くしていた。突然、三山さんが監督の脚をさすった。
「河合さん、どうしちゃったんだよ。こんなになっちゃって。起きてよ」
三山さんはそう言いながら泣いた。その瞬間、僕も堪えていたものが決壊し、声をあげて泣いた。
「監督、監督、監督……」
僕はただ泣き続け、三山さんは泣きながらさすり続けた。
行かないでください。行かないでください。置いていかないでください。起きてください。目を開けてください。
(『愉しかりし日々』原田裕美子著・抜粋1)
ああいうのは、今時じゃ流行らないんでしょうけど、なんていうのかしら……師叔と言うのか、あるいは私淑と言うのかしらねえ。私が先生についた頃でも珍しかったから。でも、ほんの少し前のことなんですよ。あなた方に言ってもうまく伝わらないでしょうけどね。……ええ、最初に先生にお会いしたのは、もう四十年前になります。まだ、先生の頭に髪の毛がありましてね。え、そりゃあ、そうですよ、最初から禿げている人なんていやしません。いる? そうなの? その方はかわいそうね。でも、少しずつ禿げていくのも嫌かもしれませんよ。お風呂に入るたびに排水溝に髪の毛が溜まるなんて、考えても嫌じゃないですか。ああ、ごめんなさい、髪の話じゃないわね。
そう、先生は……なんていうのかしら、あったかい人でしたよ。そうでなければ、長くお側でお仕えすることはできません。ああいう人は、もう大学にはいなくなりましたね。みんな、サラリーマンみたいな先生ばかりです。学生も変わったのかもしれないけど、やはり教える側でしょうね、変わったのは……。だから、先生も大学は早くに辞めてしまいました。それからはご自宅を研究室代わりになさって。でも、むしろそれからのほうがお忙しかった。肩書きがなくなると、自由でしょう? 講演や執筆活動に時間が大いに使えますから。文芸や映画評論の世界では、先生のお墨付きをもらいたくて、献本もたくさん。試写会の案内なんて、それこそ山のように来ましてね。でも、行く度に怒ってらした。今の日本映画界はひどいって。
ああ、そうですね。いい監督さんは、どうしてか早死にしますからねえ。これからっていう時に。惜しいって仰っていた。そうね、S監督のことは特に。買っていましたから、作品を。はい、デビュー作から見ていました。私も拝見していましたよ。面白い演出をなさる方でしたよね。ワンシーン・ワンカット。無茶な撮り方ばかりして。でも、あの方は、ああいうふうにして撮るしかなかったのでしょうねえ。自分で振り上げた刀の納めどころがわからない映画もありましたけど。でもそれが、なんだか未完成の迫力というのかしら、俳優たちの生命力がフィルムから溢れていました。まるで記録映画のよう。え? あら、そうですか……ご存知でしたか。そうです。S監督の三本目の脚本を書いたのは、私です。公募だったんです、それで、一生懸命書いたものを送りました。そうしたら運よく……。名前はペンネームを使ったのに、よく分かりましたね。ああ、そうか。なんでも調べられる時代ですものね。え? そうですか。小説お読みになってそうお感じになりましたか。もちろん読む方の自由です。でも、まあ、なんて言いますか、あなたが言う──先生と私は、いわゆる『愛』とは少し違うと思うんですね。もう少し、別の……あるいはそれを包んでいるなにか、そんなものではないでしょうか。陳腐な例えですけど、冬の窓辺に射す陽だまりのような、やわらかくて直接触れることのできない感覚とでもいうのかしら……。それで、登場人物は男性にして、別の職業にしました。ですので、ある意味ほぼ創作なんです。私の想いはもちろん託しておりますが、私の話ではないのです。だって小説ですから(笑)。
私にはちゃんと夫もいますしね。はい、確かに夫は先生の紹介です。夫の師事していた方と先生が懇意だったものですから。お互いの行き遅れていた弟子二人を体よくくっつけてしまえ、と。まあ、今思えば乱暴な話なんです。私の前に先生のところに長くいた方が、ご結婚されて、ご主人のお仕事の都合で博多のほうへ。その後はなんていうか……研究室がゴミ屋敷みたいになってしまいましてね。スケジュール管理もめちゃくちゃ。周囲の方々もどうにかしたほうがいいと真面目に言い出して、そんな時だったのです。私が先生にお会いしたのは。きっと、それもあって私にずっと東京にいそうな夫をあてがったんじゃないかなあ。ほんと適当ですよね。でも、よかったんじゃないかしら。誰しも一度くらい結婚しても。いいことばかりじゃないけど。あなただって、そうでしょう? ふふ。いいですよ、話合わせなくても。以来、三十年近くですか……子供はおりませんけど、穏やかな夫婦生活を送っております。はい、もちろん幸せです。
確か、研究室の助手の募集があったのは、私が二十代後半頃だったかと思います。大学とは関係なく、先生の個人的な助手というかそんな感じです。だから、お給料は先生から直接いただいておりました。茶色い事務用の封筒に入ったものを毎月の終わりに。ぽんとデスクの上に置いてあるんです。そう、無用心ですよねえ。たくさんではありませんでしたけど、私には十分でした。あと、依頼先には内緒でしたが、たまに先生の代筆で原稿を書きますと、その原稿料は半分くださいました。それは嬉しかったですね。ええ、お金の面でもそうですが、すごく勉強になりました。だって、私の署名原稿ではなくて、先生のお名前で出す原稿ですから、付け焼き刃ですけど猛勉強してね。それから、目を瞑って、先生になり切って書くんです。えいって! すると、何故か男言葉になっちゃって、スラスラかけるんですよ。先生の思考が降りてくるといいますかね。もちろん、原稿は全て先生がチェックなさいます。
「俺はこんなことを考えていたのか」って、面白そうに笑ったりして。でも時々、ただ×印だけが全面に書いてある時もありましたね。やっぱり、先生は厳しかったですよ。
そんな感じで、一年また一年と過ぎていって。先生は自然と、文芸と映画の評論のお仕事がメインになっていったんです。毎日のように試写会に出かけましては、洋画・邦画問わず映画をご覧になっていて。それでも褒めるのはごく僅かです。あとはけちょんけちょんにけなしていました。それが受けたんでしょうね。今で言う忖度がないところがね。褒める作品は確実に面白いわけです。面白いって言っても、いわゆるわかりやすい面白さとは違う、本来映画が持っていなくてはならないものが映っている作品とでもいいましょうか。
私が時々脚本を書くようになった経緯ですか? それはほんの偶然からなんです。先ほどお話ししたS監督の脚本を公募で送って以来、書いていなかったんです。だって私は脚本家志望ではありませんでしたから。一度、書いてみたかっただけなんです。そういう気分って、若い時には誰にでもあるんじゃないかしら。
ある日、先生の仲良くしていた映画監督が、事務所にいらした時に、原作の小説を持っていらして。私はその作家の大ファンと言いますか、大学の卒業論文のテーマにしたくらいですから。今はマルケスなんて若い人は読むのかしら。あなたは読んだことない? そうですか。一度読んでみません? 面白いんですよ。
あ、そうそう、それで監督さんに、私がその小説のことを好きだとか、卒論にしたんですとか、お茶を出すときに申しますとね、『君、ちょっとこれをシノプシスに翻案してきてくれよ』なんて仰るんです。ええ、それはもうおこがましい話なのでお断りしていると、先生がやってみたらいいじゃないかと。そうなると、もうやるしかないわけです。南米の架空の街のお話なのに、それを北海道にしろ、と言われて。無茶な話なんです。でも、それがね。きっかけといえば、そうなりましたね……。
僕は、病院の売店に行き、缶コーヒーを飲んだ。なんの味もしなかった。急に吐き気がした。泣くだけ泣いてしまうと体から水分が全部抜けてしまったようで、トイレの鏡に映った僕の顔は真っ白くなっていた。まるで死人のようだった。あの日、監督が僕の中で死に、僕の大部分も死んでしまった。誰もいない病院のトイレで、僕は今までの自分が内側から壊れていくのを感じていた。
(中略)
病院の近所の店で、膝掛け用のブランケットを何枚か買った。どうして、この病院のロビーはこんなに冷えるのだろう。無性に腹が立った。それをみんなに配った。なぜだかみんな少しずつ距離を取った場所にいつまでも座っていた。まるで帰る家を唐突に失った人たちのようだった。
数日後、花田さんから監督の死を知らせる電話が鳴った。僕は電話口でうなだれて静かになった。役目を言い渡されてメモを取り、なんとか返事をした。それからキッチンの流し台に何度も吐いた。飲み込めないものが込み上げ続けた。しばらくすると、突然、慟哭が始まった。自分ではどうすることもできなかった。
(『愉しかりし日々』原田裕美子著・抜粋2)
先生の一番の功績ですか? それはなんと言っても、文化庁に掛け合い、映画の助成金の仕組みを変えさせたことですね。まあ、文化闘争そのものですよね。それまでの仕組みは複雑で作家本意ではありませんでしたから。せめてフランス並みにと働きかけて。成果主義ではなく、プロセスにお金を回せるように、その旗振り役を勤めたんです。先生は映画製作者でも映画監督でもなかったので、利害がないでしょう。ですから、国も話を聞いてくれたんじゃないでしょうかね。一応、元T大の教授ですし。有識者会議というのかな、その座長になられて。先生は大柄ですから迫力ありますよね。政治家の方やお役人さんって、どうしてか小柄の方が多いでしょう。それに、先生は論理的でいながら情緒的にお話しされるのがお上手でした。交渉相手を追い詰めないのです。うーん、時間はかかりましたね。でも、そこは根気よく。お役人さんたちも次第に先生のファンになっていくようで、なんだか面白い会合でしたよ。まあ、フランスとまったく同じではありませんが、以前よりはよくなったと聞いております。そのことで、多くの映画が生まれ、日本から何本も海外に出ました。
映画は文化です。暗闇に一人身を潜め、社会と自分との誤差を埋める。社会と若者の間には常に分断があり、その中でみんな苦しんだり、悩んだりしていて。そこにかかっている橋が映画です。映画は孤独と向き合い、そして孤独を救うものです。あ、すいません……なんだか熱くなっちゃって。
先生に師淑する若い監督も多かったですよ。みなさん、意気込みはあるのだけど、見てないのね、映画を。だから、もう大学のゼミの研究室みたいで。事務所のオーディオルームには立派なスクリーンがありました。そこで上映会をするんです。古いフランス映画やなんか。映画会社の人たちもしょっちゅう出入りしていました。先生は不在でもみなさんお構いなしで。いえ、ぜんぜん大変じゃないですよ。みなさん手ぶらではこないの。気を遣ったのかしら、なにかしら美味しいものやお酒は持参なさって。若い映画監督たちは大喜びでしたよ。楽しかったなあ。むしろ、賑やかすぎるくらいでね。落ち着いて脚本や原稿を書きたいときなんかは困りましたねえ。でも、みなさんの会話を小耳に挟んでいると刺激的でね。書く上ではいい環境だったのかもしれません。
映画監督さんて、キャリアがあろうがなかろうが、どこかみなさん高等遊民みたい。実際は困窮している方も多かったですけど、そんなこと感じさせない。感じさせたら負けだくらいに思っていたんじゃないかしら。でも、映画を志すっていうことは、社会に対して異議申し立てをするってことですからね。そこはみなさん覚悟があったんじゃないかしらね。その覚悟のない人の撮る映画は、映画みたいなもの。映画じゃありません。私が先生のところにいて学んだことは、そのことなんです。でも、そういう映画は滅多にありません。滅多にないから価値があるのか、それはちょっと私などにはわからないですね。
河合監督の映画の撮り方は、賭け金を永遠に釣り上げるやり方だった。
役者は何度もNGを出され自我が崩壊する寸前まで追い込まれた。一日中カメラが回らない日もあったくらいだ。そうやって雑巾を絞り切るようにして、最後の一滴の芝居を捻り出す。そうするとある種のアクターズ・ハイになり演じることから解放されていく瞬間が訪れる。自分と役との境界線がなくなる。監督が見たかった景色がようやく訪れる。
監督はひたすら見つめ続けただけで、自らの限界を越えて可能性を獲得したのは役者自身だ。だから大きな達成感が得られるのだ。それが撮影期間、毎日続くと、自然と体力がついてファイティングポーズを取れるようになる。演じることを通して人間として強くなる。それが日々フィルムに刻まれていく。
「なんか面白いことやれよ」
そんな魔法の一言で、役者たちは永遠に踊り続けた。
そして、それを全スタッフにも求めた。口調はぶっきら棒だが柔らかいので、今で言うパワハラには当たらない。なぜなら全てがスタッフの自発的な行為だからだ。この組だけは特別だという選民意識が、そうさせるのかもしれない。末端のスタッフでも参加意識が高まった。
「映画なんて、誰がアイデア考えたっていいじゃないか」
監督の口癖だ。
僕たちは、監督とポーカーをしているようなものだ。監督は決して自らゲームを降りない。だから僕たちも、降りることができない。こうしたほうが映画がよくなると思えば、みんな寝る間を惜しみ取り組んだ。
これ以上ないタイミングで「おう、それ面白いじゃないか」と監督が言う。その一言をもらえるだけで、僕たちは天にも昇る気持ちになれた。
神輿は、担ぐ人と担がれる人がいる。その自覚があるから、監督はやさしかった。本当に厳しかったけれど、その何倍もやさしかったのだ。監督といれば毎日が特別だった。監督の映画は、自分たちが生きている記録でもあった。
(『愉しかりし日々』原田裕美子著より抜粋3)
私が書いた脚本を先生に見てもらうこともありました。たいてい、けなされましたね。「観念を書くな、人間を書け」って。私は現場の人ではなかったから、つい頭で書いちゃうんでしょうかね。だから、ずいぶん直しました。製作者に見てもらう前に、先生の関門のほうが大変でした。そのうち、先生のOKをもらうために書くようになってしまって。そうすると製作者は面白くないんですね。どっちを見て書いているんだとなります。私も混乱して、そのうちピタリと筆が止まりました。商業映画ですから二時間前後に収めなくてはいけません。私は、映画だけはたくさん見ていましたから、物語を再構築して構成することには、そんなに苦労はしなかったんです。好きな小説の映画化しか引き受けませんでしたしね。ただ、それを時間に収めるだけだと、元々、原作が持っていた行間を描けずにエピソードの羅列になる、そんなこともありました。ひどいものを書いてしまったと、自責の念にかられたことなどいくらでもあります。原作と映画の関係は難しいものです。
私はオリジナル脚本を書けるタイプではありませんでした。ええ、オリジナルは最初の一本だけです。変ですか? まあ、そうかもしれませんよね。ふつう脚本家はオリジナルを書きたがるものですから。……多分、我欲がないんです。ただね、面白かったんです。自分の書いたものを俳優さんが真摯に演じてくれた時の感動は、とても言葉で表現できるものではありません。自分が想定したお芝居をはるかに越えたときも。ああ、こんなふうに解釈したんだって、もう素直に感心するんです。胸に言葉が立ち上がってくるんです。紙の上の活字が人間の意思を持って物語に関係性を帯びてくる。それは元々、原作の小説だって持っていたものですから、そうなるのは当たり前なんですけど。脚本では少しだけ、原作者でもわからないように、そっとならすんです。
あ、ト書きってありますよね。登場人物の行動や、風景を描写する文章のこと。私がたとえば『#1 朝まだき空』と書くとしますでしょ。それを大勢のスタッフの皆さんが、早朝、暗いうちから準備して、その日の朝の一番美しい時間帯に撮影するんです。最高に美しい朝の一瞬をフィルムに焼き付けるんです。大きなスクリーンでそんな仕上がりを見ますとね、映画っていいなあと。ただの活字が、世界に、人間に、変わる瞬間です。え? ふふ……そんなものですよ、脚本家って。脚本はスタッフの皆さんに撮ってもらえなければ、ただの紙きれ。印刷された脚本ってご覧になったことは? ね、ほんと安っぽい紙でしょう(笑)
先生に褒めてもらったことは、残念ながら一度もないんです。そうですよねえ、一度くらい褒めてくれてもいいのにね(笑)。まあ、それだけ、近しい者であっても、評価に関しては妥協のない方でした。同じものを見ていても……仮に見ている場所が同じところからでも、先生とは見えているものが違うんでしょうね。深度です。それが圧倒的に違うんです。先生の周囲の人は、皆さん先生に憧れて、先生のように振る舞いたくて、先生のように考えたくて、でも、誰もそうはなれませんでした。そこは切ないですね。だから皆さん内心では嫉妬していたと思いますよ。いわゆる純粋な嫉妬ではないかもしれませんが。『先生には敵わんなあ』といったところでしょうか。でも、そんなふうに誰かを認められるって、なかなかないことですから。
私が、先生のところにずっといたのは、きっと事務処理や、スケジュール管理など、そういった雑務をこなすのが得意だったからかもしれません。人には向き不向きがあります。これは持って生まれた、人の傾向みたいなものかもしれませんね。私は雑務が得意で、先生はそうではなかった。破れ鍋に綴じ蓋ですよ。
僕は高崎市の小さな映画館で、まばらな客席に座り昼の回の上映を見ていた。これで最後の上映だ。これから先、僕の映画が劇場にかかることはないだろう。エンドクレジットが終わり、客席が明るくなった。僕は席を立ち、スクリーンに頭を下げた。そして、そっと劇場を出た。
外に出ると、雪が舞っていた。しばらくぶりに見る風花だった。冷たい北風に乗って、空中でダンスをするように散らついていた。キラキラと陽光に輝いて、とても美しかった。この世界をまだ美しいと感じることができたのが思いがけず嬉しかった。
僕は澄んだ空を見上げると「ありがとうございました」と小声でつぶやいた。
(『愉しかりし日々』原田裕美子著・抜粋4)
すいませんね、話が行ったり来たりして。ちゃんと順序立ててとは考えていたんですけど。柄にもなくインタビューなんか受けると、話がとっ散らかってダメね。
ああ、病気のこと……。正直あまり思い出したくはないですけど、それは本に書いたことで私の中でもう済んだんですよ。でもあなたもお仕事ですものね……。
そう、あれは初夏でした。可愛がっていた若い監督さんが映画を撮ることになって、ロケ現場に一緒に陣中見舞いに行ったんです。その少し前から体がだるいのなんの言っていましたけど、いつものことだろうと、たかを括っていたんです。帰りがけ、その監督さんが、どこかに飲みに行きましょうと、先生を誘ったんですが、珍しく「今日は帰る」と言いましてね、その夜はすぐに別れたんです。しばらく経っても咳はひどくなるし、相変わらずだるいと言うので、病院に検査に行きましたら、肺癌だと宣告されました。……ステージがだいぶ進んでいましてね。もう手術とかそういう段階じゃなかったそうです。先生もがっくり来てしまって。でもどこか淡々と。先生には当時どうしても書き上げたい本があったんです。だから、それを書き上げるまでは、と。あらゆる治療をしました。果ては怪しげな民間療法もずいぶんと……。でも、効果はありませんでした。病室にも執筆資料を持ち込んでねえ。痛々しかった……。でも執念を感じました。生への執着。それこそが先生の生涯追いかけた主題です。
5月の終わりに病気がわかって……9月には亡くなってしまいました。あっけないですねえ。頑丈で、殺しても死なないような先生が、がん細胞には勝てないんですもの。
ええ、それはもう覚悟はできていましたが、やはりね。受け止めるには時間がかかりました。というより、結局は最近まで受け止められていなかったんです。
先生が息を引き取ったとき、私は病院の冷たい床に崩れ落ちました。気がつくと、点滴を打たれていました。その晩中、夫の胸の中で泣きました。泣くだけ泣いてしまうと、体から水分が全部抜けてしまったようで、私は真っ白くなりました。ええ、文字通り真っ白い塊になったんですよ。きっと半分死んだんでしょう。半分以上かもしれません……。先生の死は、私を殺したのです。ひどい言い方ですね……。当時の私には、先生の死を受け止めるだけの器がなかったのです。
しばらくすると、なぜだか別の感情が心の中から湧き上がるようになったんです。怒り、とか憎しみとかです。そういう負の感情です。あれはどういう仕組みなのでしょうね。人の心の中身は見えませんから怖いですね。負の感情が自分の中から溢れ出すんです。自分ですら憎みました。しまいにはタバコやお酒や、そんなものまで対象に。バカみたいね。それだって先生の人生の彩りでもあったのに。でも、その時は病気の原因になったものをすべて憎まないわけにはいかなかったんです。
ある夜、私、事務所にあった買い置きの缶ピースを全部お庭に投げ捨てて、燃やしたんです。モクモクと煙が立ってピースの甘い香りがご近所中に流れて。ええ、怒られました。お隣がもう怒鳴り込んでこられて。そうしたら私がひどい形相でわんわん泣いているものだから、逆に心配されてしまってね。バケツで水をかけて消火してくださいました。濡れた吸い殻って、なんだか情けないものね。そんな光景を覚えています。それから、時間をかけて事務所を整理して、最終的には閉じました。それで私の役目も終わりました。暗転。長い映画の終わり。
僕は、N県の小さな町にいた。知人を訪ねた帰りだった。駅前のホテルに鞄を放り投げると、近所を歩いた。夕暮れどきの風が肌を撫でた。季節が夏の終わりに向かうことをさりげなく告げていた。僕は道行きで辺りを歩いた。あれだけ一緒にいて何を話していたのだろう、そう思う時がある。話の中身がポッカリ抜け落ちてしまっている。
僕はいつの間にか監督と二人で歩いていた。
小さな歓楽街だ。露地から露地へと抜けて、旨そうなものを探す。僕が先に目星をつけた。紺地の暖簾が風に揺れて気を引いた。格子戸の向こうのオレンジ色の灯りに温りが感じられた。
「ここどうですか? なんとなくよさそうです」
「ほんと?」
「はい、勘ですが」
入ってみると感じのよい女将が一人でやっている店だった。カウンターに座り、おすすめの品書きから数品を注文して様子を見た。地元の酒を冷やでもらった。突き出しは貝の和え物だったが、旨かった。
「監督、当たりです」と僕は小さく言った。
「冴えてきたなぁ」と監督はうなずきながら、僕を見て笑った。旨いものがあると機嫌がよくなる人だった。監督には、なぜか美味しいものが寄ってくる。注文しなくても店のほうから水を向けてくれる。
監督と一緒にいると、自由になれているような錯覚があった。監督のように、人生を泳ぐようにして生きたいと思った。しかし、よく考えてみればそんなことできる筈もなかったのだ。持っている器が違うのだから。それに、今僕が見ている側面は、あくまで監督という深淵のごく一部でしかない。
監督は孤独な人だった。映画を撮るために、普通の人々が望むものには全く興味を示さず(しかし、彼らの望む小さきものには深い理解を示し)自らは映画監督という孤高の生き方を貫いていた。僕にはそんな覚悟はまるでなかった。
知らない街の路上で、監督が空を見上げている。
その目にはなにが見えていたのだろう。
路地裏を自転車が通り過ぎる。チリンチリンとベルが鳴った。
「お、ごめん」
監督が自転車をひょいと避けた。
「なあ、明日はなに食うの?」
「この辺りは、なんですかね?」
「探せよ」
「はい」
僕は嬉々として周辺に聞き込みを開始する。
そんな日は戻ってこない。それが、時々とても悲しくなる。
(『愉しかりし日々』原田裕美子著・抜粋5)
去年のことです。先生が亡くなって丁度二十年でした。命日の朝にラジオから、先生と仲のよかった歌手の歌が、ふと流れてきたんです。その歌が、とても素晴らしくて。私、いつの間にかハラハラと涙を流していました。そうしたら「お前はいつ書くの?」とその歌手の方に言われたような気がしたんです。難しく書こうなんてしなくていい、ただあの日々を思い出しながら書けばいい、そう言われたような歌でした。そうしたら、もう書こうって。素直にそう思えました。それから毎日、思い出と向き合うことにしたんです。どこか避けていたことを徹底的に考えてみたんです。先生のことを考えることは、同じ時間を過ごした私の人生について問い直すことです。私の取るに足らない小さな人生を今更考えることは嫌だったけど、やったんです。
朝起きて、先生の好きだった珈琲豆を挽いて、お湯を沸かして、少し濃い目に淹れて飲んで。チョコレートを一つ齧るんです。それでスイッチを過去に戻します。目を少し閉じて開けると、私は先生の事務所の机で資料整理をしているんです。音楽も聞こえてきます。レコードの針が時々飛ぶような古い音楽。埃の匂いの書籍、タバコの匂い。庭に来る小鳥の声、そんなものが心に浮かぶんです。数時間経って戻ってくると何枚かの原稿ができているのです。いや本当ですって。そんな日々を半年間くらいかな、毎日続けたんです。それが、この小説です。先生のお側でお手伝いをするのは、本当に愉しかったんです。それでこのタイトルに(笑)。そういう人に出会えたこと、この人生の偶然を私は幸せだと思っています。
え、これからですか? そうですねえ……。
私は、私の人生を歩んでいこうと思います。ようやく先生から卒業できました。